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職員ひとりごと(45) 「旭区地域女性団体協議会」の研修に参加して

[2008年11月15日]

 今年、10月30・31日の2日間にわたって、飛騨高山・合掌造りで有名な白川郷方面への研修旅行に同行した。いろいろと学ぶ点が多く、印象深い研修旅行であったが、この研修の中で一番心を揺さぶられ強い感銘を受けた「中村久子」さんという女性の偉大な生涯について、少し長文になるが触れてみたいと思う。
 中村久子は、明治30年に、岐阜県大野郡高山町(現高山市)で父釜鳴栄太郎、母あやの長女として生を受け、両親の愛を一身に受けて育ったが、2歳のときに凍傷が原因となり突発性脱疽(だっそ)という病気にかかってしまった。久子の罹った脱疽という疾患はとても恐ろしい病気で、患部が高熱のため肉が焼け、骨が腐っていくというものであった。腐敗した患部(手足)は切断しなければ命の保証がないという病であった。両親の必死の看病もむなしく、病気は進行し、両親は手足の切断か命かという究極の選択を迫られることになった。3歳の幼児の手足を切断するなどということは両親としては到底決断できなかったが、ついに苦悩の末決心したものの、切断後も患部はなかなか皮膚が張らず、痛々しくひび割れや骨が見えた状態だったという。
 そして、父親は久子が7歳の時に過労と心労とで急逝し、残された母は重い障がいを背負った久子と弟を抱えて途方に暮れることになった。あやは実家に帰ることとなったが、弟はついに諸事情から育児院に送らざるを得なくなった。その後、久子の両眼は急に痛み出し一夜のうちに失明してしまう。思い詰めた母親は、ある時久子を背負い高山市を流れる宮川の上流の激流に身を投げようと、死に場所を求めて歩いた。何も知らない久子の「かか様どこ行くの?」「かか様と良いところへ行こうなァ…」「かか様こわいよう…っ」の声に再び生きる希望を取り戻したという。ここのところの描写は、久子本人の著書「私の越えて来た道」に詳しい。
 以上のような内容を、高山別院に行くまでのバス車中のビデオと、ガイドさんの説明を聞きながら研修資料のパンフレットで知ったのであるが、私は不覚にも涙がとまらなくなった。先頭座席に座っていたので他の人に見られることはなかったと思うが、その時の母親の気持ち、そして久子の気持ち、想像するだけでも涙がとまらない。当時の母あやと久子の状況は「花びらの一片」(74~75ページ)では次のように記されているが、涙なくしては読めるものではない。

『「母あやは、またしても酷しい飛騨高山の冬の寒さに傷みつづけて手足をもてあまして苦しむ久子を、祖母と毎夜のように、かわるがわる背負って、雪の夜更けを子守唄を口ずさみながら歩いた。雪駄の歯についた雪を鍛冶橋の袂に、コンコンと叩き落したあの音・・・。
“母は祖母に私を預けて、信州下諏訪の製糸工場へ稼ぎに出ました。体の弱い母は山坂何十里越えて何故行かれたのだろう  子ども心にも、母の身が案じられて不思議に思われたのです。毎年痛む手足の治療代が沢山借財になっている為の出かせぎ とあとで聞いた時、〈かか様かんにんしてなーァ〉と心で謝りました。母の苦労は並大抵のものではありませんでした。”」

 母あやの苦労と苦悩と悲しさと寂しさを、ここに書き尽くすことはできない。久子の病気と両手両足の切断、夫の仕事の不振、山ほどある借金、昼夜泣き通す久子の看護、幾度となく繰り返した転宅、夫の死、再婚、再婚先の夫や子どもへの気苦労、久子の両眼失明、息子栄三との別れ、世間の冷たい目、出かせぎ、別居・・・。
 幾度か久子と共に死を決したが、力強く生きることを決意した母は、徹底した厳しいしつけを久子にしたのである。“私は仕事を中途にして止めることは、母に絶対に許されなかった。”』
 久子に良いこともあった。一時失明していた両眼は、母と祖母と医師の熱心な看病と治療により、約8ヶ月あまりにして視力を回復する。また、祖母は厳格ではあったがまことに優しい性格で、久子を慈しみつつ、教育を行う。
 外に遊びに行けない久子のために人形を作り、お手玉を作り、いろいろな玩具を作っては、近所の誰彼なしに久子のそばへ呼び集めてくれ孤独にさせないとともに、来客に対する礼儀を始め、日常の総てに厳格なしつけをした。
 祖母からは百人一首や読書や習字を教えられた。11歳の時から母あやは、久子が一人で自活していけるように、徹底したしつけを久子に課した。いくら泣いても決して許さなかったという。
久子は泣きながらもよく耐え、残された腕と口を使って、裁縫も刺繍も編み物も掃除も火を焚くことも洗濯も包丁を使うこともできるようになったという。
 その後も久子の苦難は続く。
 20歳になり、自活の道を探るが、現代とは異なる大正5年の時代である。女性が働くこと、ましてや、障がいを持った久子にどのような職があったのか。思い悩んだ末高山を離れ、独り立ちの生活を始めた。無手足の身で、裁縫・編み物・口での糸結び・短冊書きを芸として興行界に入る。
(最終的には41歳で興行界から身を引く)
 愛する弟との再会と死別、母の死、そして自身の結婚・出産後もわずか3年で夫と死別、祖母の死、再婚するも2度目の夫も2年で死別、3度目の結婚をするが、お金のこと・子どものことで離婚と、幾多の困難の中を生き抜く。これだけの出来事が続けば、私なら自暴自棄になって、世の中、自分の人生に絶望してしまうところだが、久子はこれらの苦難を乗り越えていくのである。24歳の時には、自らの半生を綴り、見事大正9年8月に当時の婦人雑誌「婦女界」に懸賞一等に入選している。
 久子は、人生の中で多くの人と出会う。そしてその出会いが彼女の人生を変えていく。書道家沖六鳳に出会い、書の指導を受ける。高山市の高山別院で中村久子女史の遺品を見たが、見事な流麗な書体の数々には驚きを通り越して尊敬と神々しさを感ぜずにはおれなかった。
 アメリカのヘレン・ケラー女史とは、来日に合わせ3度会っている。ヘレン・ケラー女史には口で作った見事な日本人形を贈っている。そして、ヘレン・ケラー女史からは「私より不幸な、そして偉大な人」との言葉を贈られたという。
 42歳の時、書家の福永鵞邦と出会い、「歎異抄」を紹介され、それが縁となって求道者としてその後を生きる。50歳(昭和21年)頃からは、執筆活動・講演活動・各施設慰問活動を始め、全国の健常者・障がい者に大きな生きる力と光を与えた、とある。

 69歳の時には「悲母観世音菩薩」を高山市国分寺境内に建立。
 昭和43年3月19日高山市の自宅で逝去。享年72歳。
 以上、中村久子の生涯を駆け足でたどったが、高山別院で拝見した彼女の著書・メモ帳・人形などの作品集のどこにも暗さがない。絶望や憎しみは微塵もなく、むしろ実直さや神々しさを感じる。苦難の極限を歩んだ人生のはずだが、最後は求道者として、自己の障がいを恨みもせず、強い意志を持って、その稀有で偉大な生涯を全うされたのだと私には思える。女史の生涯については映画化もされ、NHKの「心の時代」でも取り上げられたり、平成9年には高山市で「中村久子女史生誕百年」記念行事が行われたとのことである。
 私は、高山別院での講話及び「花びらの一片 - 中村久子の世界」に多くを依りながら中村久子という偉大で驚嘆すべき女性の一生をたどったが、中村久子女史のなお詳しい資料を望まれる方は、同書を求めていただきたい。なお、文中では敬称を略したことをお許しいただきたい。(同書の中には女史の短歌や書、人形など多数が掲載され、女史の写真も数多く収録されている。)
 思うに、厳しい過酷な状況のなかにあっても、真摯に誠実に前に向かい生き抜いていく強い意志と、たゆまぬ努力と、希望を失わない久子の精神力に圧倒された研修だった。そして、子を思う両親の、特に母親の無上のそして無償の愛を感じた中村久子女史の生涯であった。

平成20年11月15日
旭区長 岡田文秀

 

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