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職員ひとりごと(61) 淀川開削100年

[2009年8月1日]

 旭区では、淀川河川公園が散歩やジョギングなどに利用されており、グラウンドでのスポーツやサイクリングも、四季の自然の中で楽しめるようになっている。また、淀川本流とは隔離され小さな池が連なったワンドは、朝日新聞公募の「21世紀に残したい日本の自然100選」にも選ばれている。このように、淀川は「潤いと憩いの空間、自然環境の保全の場」となっている。

 この淀川は昔からこのように市民生活に親しめる川であったのだろうか。実は、淀川は過去幾度となく猛威を振るい、多くの洪水をもたらしてきたが、中でも最も被害が大きかったのが明治18年の大洪水であったという。明治18(1885)年の6月初旬から7月にかけて、降り続いた雨で淀川は200箇所以上で堤防が決壊。流域は浸水し、溺死者93人。流出家屋26,121戸,被害人口276,049人。天満橋や天神橋など30以上の橋も流されたそうだ。
 この惨状に立ち上がり淀川改修運動や河川法制定に尽力したのが、東成郡放出村出身の大橋房太郎であった。府議7期26年間務め、国に淀川の改修を再三陳情し、そのたゆまぬ尽力の結果、明治29(1896)年淀川改修が国会で議決された。
 淀川改修は、滋賀県から京都、大阪両府にかけて大掛かりに行われ、流れをよくするためにあちこちに運河が掘られ、下流部ではそれまでの淀川(今の大川)から西に分かれて大阪湾に注ぐ放水路(新淀川)が開削された。房太郎は用地買収の仲立ちを引き受け、地主たちに治水の大切さを説いたという。                                  
 明治42(1909)年6月、新旧淀川の分岐点となる毛馬閘門(けまのこうもん)で完工式があった。今年はこの年からちょうど100年にあたる。
 「水を治めることは国を治めること」歴史上、仁徳天皇の時代の茨田の堤、豊臣秀吉の文禄堤など、治水工事は国家規模で行われてきた。赤川の名前の由来となった「赤川寺(せきせんじ)」は、淀川の氾濫による洪水の難を鎮めるために建立されたともきく。100年前までは、淀川の氾濫で生活の営みや生命・財産までも脅かされる状況が続いていた。

 淀川開削100年の今年、8月22日から10月12日にかけて「川と生きる都市・大阪」をテーマに『水都大阪2009』の取組みが中之島を中心に展開される。8月29日には朝日新聞社主催で、中之島公会堂を会場にして、建築家の安藤忠雄さんや平松市長のトーク、大橋房太郎のひ孫のシャンソン歌手中村芙実さんの淀川をテーマにした歌や房太郎の業績と人柄を映像での紹介などがある。
 また、10月4日(日)には、旭区・都島区・城東区・鶴見区合同で「淀川100年未来にむけて」のイベントが市公館で開催される。
 興味のある方は応募してみてほしい。(詳しくは広報あさひ8月号)  

◆人権生涯学習担当 田中英子

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