もっと知りたい あべの発見!7つのあべの物語
27/72

23■阿倍野で生まれた「徒然草」清貧自適の日々を書き連ねた―吉田兼好親房との深い交流のもと顕家の霊を弔う兼好法師「つれづれなるままに 日ぐらし硯すずりにむかひて 心にうつりゆくよしなしごとを そこはかとなく書きつくれば あやしうこそものぐるほしけれ」この『徒然草』の作者として知られた吉田兼好(1283〜1350)は、本名は卜部兼好うらべかねよしで、代々京都吉田神社の神官をしていました。和歌をよくして、後醍醐天皇の父にあたる後宇多天皇に仕えましたが、南北朝の争乱をさけて京都吉田に隠れ棲みました。上皇の死後、出家して兼好と名乗り、世人は吉田兼好と呼ぶようになったようです。阿倍野にきたのは、阿倍野の合戦で壮烈な戦死をとげた北畠顕家の死を悲しみ、その霊を慰めるためだといわれています。兼好は宮中に仕えていたころから、顕家の父墳のふもとに移り住んだのです。そこで、藁わらを打ちむしろを織って糧にするという清貧自適の日々を送りました。庵の近くには聖天山の杜があり、そこを下ると浜も近かったようです。兼好は村の人々や風景を眺めながら、風俗や習慣、自身の考えなどをつれづれなるままに紙に書き連ね、壁紙として貼っていました。後に発見されたこれらの短い記録集が、『徒然草』と名づけられたのです。松虫通3丁目の海照山正圓寺かいしょうざんしょうえんじの正面参道横に「大聖歓喜天だいしょうかんきてん」と彫られた石標があり、その台石として「兼好法師藁打石」が残っています。また、聖天山公園南入り口の高台(テニスコート横)に『徒然草』の序段が刻まれた「吉田兼好文学碑」が建てられています。である親房とは深い交流があり、文武両道に秀でた才知抜群の貴公子顕家には、絶大な期待を寄せていました。しかし、弱冠21歳での顕家の死は、兼好に大きな失意をもたらし、京都を離れて、家僕の命婦丸みょうふまるの郷里である阿倍野の丸山古兼好法師画像〔出典:奈良絵本「徒然草」序段絵江戸時代写本(名古屋市蓬左文庫所蔵)〕

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer10.2以上が必要です