もっと知りたい あべの発見!7つのあべの物語
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56松原三五郎『裸婦』松原三五郎は、備前岡山藩の御典医ごてんいの息子として岡山市に生まれました。1878(明治11)年、岡山県師範学校変則中学科に入学し、平野雄也に学びましたが中退しました。1880(明治13)年に上京して、初代五姓田芳柳ごせだほうりゅう、ワーグマン、渡辺文三郎らに洋画を学び、1884(明治17)年、岡山に帰ります。岡山師範学校などで図画の教師をしながら、画塾・天彩学舎を開き、洋画の展覧会も開きました。大阪府はその指導力を評価し、1890(明治23)年、大阪師範学校へ引き抜いたのです。大阪師範学校に転任すると、天彩学舎を現大阪市中央区糸屋町に移し、以後は大阪府立中学校(現、北野高校)、大阪陸軍地方幼年学校の図画教師を歴任。もう一人の大阪洋画界の先駆者である山内愚僊ぐけんとともに、大阪で初の洋画展覧会を開き、関西美術会を結成します。1904(明治37)年、教職を辞した後、この地に移り、設備の整った洋館建てのアトリエを構え、天彩画塾と改称しました。1916(大正5)年には大阪洋画会を結成し、学生用モデル研究所を建設するなど、大阪洋画界の重鎮として活躍し、洋画を近代の新しい文化として捉え、美術教育者の養成に力を入れるようになりました。日本を代表する多くの画家たちを育て、大阪洋画壇の基礎を築く当時の日本では、女性の裸体を描いてデッサンの勉強をするというやり方もまだ根付いていなかったのですが、松原には「裸婦から入るのが洋画の基本」という信念があったようで、自身が描いた裸婦像も写実的で堂々としています。大阪で育った小出楢重ならしげも『油絵新技法』の書に「裸身は画家、一生の最もよきモチーフであると同時にその表現の困難さにおいては他の何物よりも困難である。従って初学者にとってこれも描く事は写実的技能を養う上に欠くべからざるよき対象である」と書いています。図画教師の傍かたわら自宅に画塾を開き近代の新たな文化芸術の振興に力を注いだ、松原三五郎『松原三五郎肖像』林唯一作(倉敷市立美術館所蔵)(倉敷市立美術館所蔵)

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