もっと知りたい あべの発見!7つのあべの物語
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早川良雄(1917〜)は、創設間もない工芸学校で学び、山口正城からバウハウスの理念に基づく新しいデザイン教育を受けます。1936(昭和11)年、図案科を卒業後は、三越百貨店、大阪市文化課を経て、1948(昭和23)年、近鉄百貨店に勤務します。この年、全館復旧した阿倍野店では、流行発表会として呉服の「秀彩会」、洋服の「洋美会」が催されます。デザイナーは早川一人で、毎週行われる催し物の宣伝ポスターからパンフレット、新聞広告に至るまで、全て彼が制作していました。翌年には宣伝広告印刷物の研究雑誌『プレスアルト』に特集が組まれるなど、近鉄百貨店にとっても早川のデザイン活動は大きな躍進につながったのです。1952(昭和27)年フリーとなり、心斎59戦後の復興とともに庶民の心をつかむ宣伝活動の広がり1945(昭和20)年、大阪は大空襲のため焼け野原となり、8月15日に終戦を迎えます。物資不足やインフレなど戦後の混乱が続く中、1948(昭和23)年、近鉄百貨店阿倍野店がいち早く復興します。『リンゴの唄』『東京ブギウギ』など明るいメロディーとともに、街は次第に活気を取り戻していくのです。新しい時代の芸術を求め、斬新なデザイン活動を続ける早川良雄戦後グラフィックデザイン界の巨匠である橋のカロン洋裁研究所のポスター制作やファッションショーの演出を引き受けますが、その斬新な作品もまた、近鉄時代の作品とならび、一躍注目を浴びました。その後、活動の本拠を東京に移しますが、1964(昭和39)年、浪速芸術大学(現、大阪芸術大学)の教授に就任し、教育者としての活動もスタートします。また、店舗デザインや日本万国博覧会の色彩基本計画への参画、装丁、自由作品など、平面に限らずジャンルを越えたクリエイティブな活躍により、早川は、日本のグラフィック界に大きな影響を与えました。シュールレアリズムの影響を受け、現代版画に新風を送り込んだ泉茂関西の現代美術を代表する泉茂もまた、大阪市立工芸学校で図案を学んでいます。早川の後輩で、1939(昭和14)年に卒業後、大丸百貨店に勤めました。1951(昭和26)年には、画家・版画家・写真家として前衛的・抽象的な作品を残した瑛九えいきゅう(1911〜1960)を中心に、デザイナーの早川らと共に、既存の美術界からの解放と権威主義の否定をかかげ赤松麟作の作品『画室』小磯良平の作品『某氏の肖像』早川良雄による「秀彩会」ポスター(大阪市立近代美術館建設準備室所蔵)

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