もっと知りたい あべの発見!7つのあべの物語
69/72

65少年の頃から友人を笑わせることが好きだった秋田實は、1905(明治38)年、大阪市で生まれました。小さい頃から、父親が大の演劇・演芸ファンで、活動写真、演芸小屋によく連れていかれたようです。1918(大正7)年、旧制今宮中学に入学し、後に大阪文壇の中心人物となる藤澤桓夫と知り合います。2人は旧制大阪高校(現、大阪大学)に進学し、藤澤桓夫を中心とする同人雑誌『辻馬車』のメンバーとして、放送作家の長沖一まこと、詩人の小野十三郎らとも親交を深め、以後50年にわたる友情で結ばれます。1928(昭和3年)、23歳で東京帝国大学文学部哲学科に入学、大学もまた、藤澤、長沖らと同じでした。エンタツと意気投合し「無邪気な笑い」を台本のポリシーに1931(昭和6)年26歳の時、秋田は横山エンタツ、花菱アチャコと出会います。エンタツが35歳、アチャコは34歳。秋田はエンタツの人柄に惹かれ意気投合し、ここから漫才作者秋田實がはじまります。エンタツ・アチャコは漫才師として初めての洋服姿、楽器のない「しゃべくり」一本の健康で健全な笑いは、テンポの良いハイカラな漫才としてお茶の間の人気を集めました。「笑い」を作り出す最後のものは、立場や信念ではなく技術である1945(昭和20)年、満州演芸勤務のため満州に渡った秋田は、引き上げ後の1949(昭和24)年、NHKの公開ラジオ番組「上方演芸会」を担当し、秋田の台本から多くの新人を送り出しました。ミヤコ蝶々・南都雄二、夢路いとし・喜味こいし、秋田Aスケ・Bスケ、といった人たちは、まさに秋田が輩出したのです。1951(昭和26)年には、京都から阪南町の借家に転宅。1968(昭和43)年、阿倍野再開発に伴い新しいモダン寄席をつくろうと、秋田實の発案でケーエープロダクションが設立されました。1971(昭和46)年、大阪芸術大学芸術学部の教授となり、1975(昭和50)年、大衆芸能科を創設した大阪シナリオ学校の名誉校長に就任。漫才の歴史や大阪の笑いについて講義し、言葉の研究やネタづくりなど実践的で面白い内容だったようです。しかし2年後、播磨町で亡くなりました。72歳でした。■小説家から漫才作者へ「言葉と笑い」の着眼点を探求した秋田實秋田實

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer10.2以上が必要です