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東成区の沿革・歴史

2018年9月13日

ページ番号:38

■ 明治までのひがしなり

大坂夏の陣屏風(部分)の写真です。

 当区行政の沿革をたどると、南北朝時代の正平6 年 (1352年)四天王寺秋の坊日記「新開荘」…云々と記録があり、この新開荘は現在の東成区の大半を占め、当時は四天王寺の所領であったことが知られます。
 「新開荘」の名は文禄3年太閤検地の際に廃止され、江戸時代に入ると東成区内の各村(東小橋、中道、森、本庄、中浜、西今里、大今里、東今里、片江、深江、猪飼野の11カ村)は幕府直轄の天領地となり、大坂城代の知行地または代官支配地となりました。大坂旧市の鈴木町(現国立大阪病院付近)および谷町の2カ所に設けられた代官所が司農行政に当たり、各村々においては、庄屋・年寄・百姓代の村方三役によりとりまとめが行われ、明治維新までこの関係が続きました。

■ 明治のひがしなり

本願寺蓮如上人御文章の写真です。

 明治期前半の当区は区内を南北に流れる平野川・猫間(ねこま)川などの河川により、水利の便に恵まれ、農村が点在するのどかな田園地帯でした。
 明治中頃には大坂造兵工廠・城東練兵場が設置され、西北部は住宅地や家内工業地、鶴橋方面は商工業が目立ち始め漸次西部から開発が進みましたが、まだ農業が主要産業でした。
 明治期の最も大きな出来事は明治18年の淀川大洪水による悲惨な被害でした。この大洪水の被害を期に淀川改修の議が起こり、明治30年に改修工事が着工し、巨額の費用と10年余りの歳月を費やして同42年完成を見、大洪水の心配がなくなりました。一方、学校は早くも明治15年に阪東小学校(神路小の前身)、同20年に東生尋常小学校(中本小の前身)が創立しています。また交通機関も、明治28年城東線(現JR環状線)が開通し玉造駅が設置され、区の発展に大きく寄与しました。

■ 大正のひがしなり

東成郡役所の写真
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 大正元年に鶴橋村と中本村は町制を布き、従来の農村も住宅地に転換され、地価の高騰に伴い土地開発会社の創立をみるに至る状態で、かつてはのどかな農村地帯であった当区も著しい発展の途をたどりました。
 大正3年に大軌電車(現近鉄)が開通し、城東線(現JR環状線)と共に交通機関の便に恵まれ、明治42年の当区域内の人口は約1万7千人でしたが、大正13年には10万人を越えました。人口の増加に伴い小学校も大正4年に中本第2(現中道小)、同11年に鶴橋第3(現大成小)、中本第4(現北中道小)が次々開校しました。
 商工業の発展と人口増加により都市化が図られ、いよいよ大正14年4月、1200年の歴史ある「東成郡」に終止符をうち、大阪市に編入され「東成区」として発足しました。

■ 昭和のひがしなり(戦前・戦中まで)

浪華の賑わい・二軒茶屋の図の写真です。

 昭和初期の東成区は、現在の生野・旭・城東・鶴見の4区をも含む広大な区域を有し、人口も33万人を数える大区となり、区政は繁雑を極め、そのため昭和7年「旭区」が、同18年「生野区」「城東区」が分区独立しました。昭和という時代は、大阪市が飛躍的発展した時期です。
 大阪城の再建・御堂筋および地下鉄の開通など近代都市の機能の充実がなされ、日本の代表的一大商業都市へと発展しました。このような大阪市の発展に伴い昭和2年市電(路面電車)が下味原から今里まで延長開通し、城東線も高架化・電化がされ、同8年には「森の宮」「鶴橋」の開業と共に区民の足は飛躍的に便利となりました。小学校も、東小橋・今里・東中本・深江・片江と次々に新設され、戦後の宝栄小学校新設により今日の11校となりました。
 しかし、昭和9年の室戸台風は東成区の各小学校の校舎に甚大な被害をもたらし、教員、児童等多くの犠牲者をだすなど悲惨な爪痕を残しましたが、これを機に校舎の鉄筋化がはかられました。昭和20年3月の大阪大空襲、同年6月の空襲では当区の西部を中心に約6,400の全焼家屋と約20,700人の罹災者をだしました。終戦前日の8月14日大阪砲兵工廠を中心とした大空襲の余波を受け「森の宮」駅周辺も甚大な被害を蒙り、翌8月15日第2次世界大戦は終結をすることとなりました。

■ 昭和のひがしなり(戦後)

    終戦直後の区内は西部を中心に焼野原と化し、耐乏生活を余儀なくされ、主食の遅配や欠配、停電の続くなか、いち早く鶴橋や玉造駅前に闇市が出現し、敗戦日本の象徴的な存在となりました。戦後の混乱のなか、先ず大阪市戦災復興土地区画整理により、玉造から事業が着手され、復興第一歩が始まりました。

 戦後改革のなかで学制が改められ、六・三・三制となり、昭和22年新制中学として東陽・本庄・玉津さらに相生の各中学校が開校されました。

 昭和30年代に入り区内の交通も整備され、32年にトロリーバスが今里~守口間開通、森の宮から緑橋まで市電が延長運転され、交通の足が一段と便利となりました。また、ジェーン台風(昭和25年)を上回る被害となった第2室戸台風(昭和36年)の後、追々と下水事業も完備され、度重なる浸水被害から区民も解放されました。

 昭和40年代は東成区にとり充実した時代だったといえます。昭和40年には小児保健センター、44年には東成保健所・消防署、そして行政の要である東成区役所の新庁舎が次々落成しました。地下鉄網も中央線「森の宮」~「深江橋」と千日前線「新深江」までが開通、中央大通・阪神高速東大阪線の整備がなされ、当区の発展に一層の拍車がかかりました。

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昭和32年6月豪雨後の千日前通りの洪水の写真
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昭和32年6月豪雨後の千日前通り(正面奥が今里ロータリー)

昭和44年東成区役所新庁舎完成時の写真
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昭和44年東成区役所新庁舎

■ 平成のひがしなり

 平成になってからの東成は、高齢者(65歳以上)の比率が16.9%(平成7年度国勢調査)と全市で4番目に高く(平成12年度国勢調査では、19.2%で6番目)、その対策として平成9年5月には大今里南3丁目に「東成区在宅サービスセンター」が、翌平成10年5月には東中本2丁目に市老人保健施設「おとしよりすこやかセンター東部館」が完成し、高齢者にやさしい施設の整備が進みました。

 又、待望のスポーツ施設として平成10年5月には、神路公園北隣りに東成スポーツセンターと東成プール(温水)が次々に完成、平成23年1月には大今里西3丁目に東成区民センターが東成図書館を併設して開館し、年齢に関係なく区民の憩いの場として利用されるなど、各種施設の充実が進みました。

 平成27年4月には、東成区制90周年を迎え、区内の各所で区民とともにさまざまなイベントが開催されました。

東成区民センターの写真

東成区民センター

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