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047 田辺大根

2023年11月6日

ページ番号:33865

収穫直後の田辺大根

 古代の大阪の地形は上町台地と生駒山脈の間(現在の河内平野)が内海でした。

 長年の大和川や淀川が運ぶ土砂の堆積によって海水は汽水となり次第に野菜耕作に適した砂質土壌が形成されました。

 特に江戸期には大和川の付替工事により、河内平野が広大な干拓農地となり、野菜や木綿の生産地となりました。

 また、江戸時代、大坂は各藩の蔵屋敷が集まり、米とともに全国の特産物が集まりました。商業、金融の町として繁栄し、食文化も成熟し「食い倒れの町」という異名をもつようになりました。

 大坂でも町というのは大坂三郷(北組、南組、天満組の3組)、船場、島の内、天満辺りでその周辺は近郊農村でした。天保7年(1836年)の「新改正摂津国名所旧跡細見大絵図」によると、胡瓜は毛馬、大根は守口や田辺、蕪は天王寺、茄子は鳥飼や新家、まくわ瓜と人参は木津、白瓜は玉造と黒門および木津、くわいは吹田等々と各地に独特の野菜が産出されていました。

 田辺大根は、白あがり京大根とねずみ大根が交雑したものが、江戸時代に田辺地域の土壌に根付いたと言われます。大正11年編纂の「東成郡誌」には「田邊町における大根は遠く三百年前より栽培せられ田辺大根の名は遠近に轟けり。・・・其の味すこぶる美にして、中流以上の家庭及び料理店等に歓迎せらる。本地にかくの如き風味ある大根の産する所以は、栽培に好適なると、農夫の栽培法に熟練せるによる」と、また大正十四年に編纂された「田邊町誌」には「本町にあっては遠い昔より其の風味すこぶる美にして、各方面の歓迎を受けたる大根を特産せり。是(こ)れ当地の土質が大根の栽培に好適なると栽培法に熟練せるとによれるものにして、世に之を田邊大根と称し、其の名全国に聞こえたり。」と書かれています。

 田辺大根は大阪を代表する大根でした。大正時代の田辺小学校の校章が大根のデザインとなったほど「田辺と言えば大根、大根と言えば田辺」であったと思わせます。形質はハムのようにずんぐりとしてやや下膨れ。ネズミの尾のような可愛い根があります。白首で立派な葉が育ちます。生で食べると辛みがあり、煮ると甘みに変わります。

 多様な料理に適し、愛された田辺大根ですが、戦後市場から姿を消し幻の野菜となります。理由は、生産地域の都市化、鉄道の発達で他府県から大量の大根が安く入荷される。伝統野菜の特徴で収穫された大根の形や大きさが不揃いで市場商品にしにくいなどがあります。

 消滅したと思われた田辺大根ですが2000年に当時の大阪府立農林技術センターで種子が保存されていることが分かりました。「田辺大根ふやしたろう会」のメンバーが元の地域で復活させたいと種子を分けてもらい、田辺を中心に周辺地域の学校や人々に栽培してもらい復活運動に取り組んでもらいました。現在では「なにわの伝統野菜」のひとつとして見事に復活しました。12月の収穫期に地域の人々が栽培した田辺大根を持ち寄って品評会など「田辺大根フェスタ」が開催されます。

 現在もいろんな人々の参加でレシピ考案や加工食品開発でさらに普及が進んでいます。

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