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058 中野のはり

2019年1月10日

ページ番号:33874

中野鍼灸院

中野鍼灸院(なかのしんきゅういん)は平安時代の延暦(782~805)の頃に設立された、「中野降天鍼療院(ナカノアマクダルハリヤ)」がその屋号です。
平安時代から一子相伝を守り、男児が恵まれない時は、女性も当主としての鍼灸術を習得して、現在に至っています。
43代目中野一氏の言によれば、以下のような長期にわたる経歴がわかります。
初代の治平氏は延暦20年(801)生まれ、平安初期に弘法大師が布教の途上、当家に宿を借りたお礼として、当時最も進歩した鍼術とつぼを示す「遂穴偶像」(スイケツグウゾウ) (大人と小人の丈1m弱の木像)と金針を授与されとのことです。
その木像は現在も中野家に伝えられています。
3代目主禮氏は年度が不明ですが、旧暦満月の8月15日に開業されたので、「月見の鍼(はり)」と呼ばれ、今もその治療に訪れる人が多いといわれています。 
南北朝の頃に、足利軍の戦火により屋敷を焼失したが、大師伝授の木像2体と鍼と漢方薬書が残り、今日に至っているとのことです。
宝暦13年(1763)発行の摂津平野大絵図にも、中野村小児鍼師と記されています。 
明治の頃、第41代目新吉氏は医師の資格を取得された上で、西洋医学を取り入れて独自の鍼法を築かれたので、近畿一円から「中野鍼まいり」として、一日500人以上の人々が殺到し、屋敷内に遠路の来館者を泊める宿舎も建てられていました。
大正3年に南海平野線が開通した時には、中野駅から鍼院まで7ケ所の道辻に石の道標が建てられました。
大正時代に中野家41代目が大阪鉄道(現近鉄南大阪線)の開通に尽力し、そのお礼として大正12年の開通時には最寄りの駅名を「針中野」としたといわれています。
現在も駅名が継続され、地名となって残っています。
当時では珍しく遠くから見えた3階建ての塔屋敷は、老朽化したために昭和50年に取り壊されました。

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