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090 庚申街道

2023年11月22日

ページ番号:256383

 庚申街道は四天王寺南大門から約100m ほど南下した、庚申堂(四天王寺庚申堂)を過ぎ東南方へ蛇行しながら文の里を通り、桃ヶ池の北端で東に折れ、旧北田辺村の北辺(この通り)を横断、さらに東へ駒川を越え今川で川沿いを南下、針中野(旧中野村)、湯里(旧湯谷嶋村)、旧住道村を過ぎ、大和川に突き当たると川沿いに東へ古市街道と出合う明治橋北詰(旧川辺村)にいたるという街道です。

 江戸時代の北田辺村は、大坂の近郊農村で木綿や田辺大根などの生産地でしたが、庚申街道は四天王寺や庚申参りする信仰の道であるとともに、日常的には牛馬車を使って農作物や肥料の運搬に利用されていました。

 街道の名前となる庚申信仰は、中国の道教に由来し、六十日毎の庚申(かのえさる)の日の夜、体内に住む三尸(さんし)の虫が抜け出し、その人の罪業を天帝に告げ、天帝は報告によってその人の寿命を決めるといわれ、三尸の虫の行動を封じることで広まった信仰です。

 庚申堂は三尸の虫を押さえる青面金剛童子(しょうめんこんごうどうじ)を祀ります。庚申堂の縁起では、飛鳥時代、疫病が流行り高僧が祈ったところ、庚申の年の正月7 日庚申の刻に青面金剛童子が現れ、祀ると疫病が退散したということから庚申の日に青面金剛童子に祈れば願いがかなうという信仰がはじまりました。


北田辺5丁目で庚申街道と下高野街道が交差しています。
画像は庚申街道から東に向いて交差点を撮影しています。


北田辺6丁目には地元の有志による庚申街道の由緒などを書いた記念碑があります。

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