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乳牛牧跡(ちゅうしまきあと・ちちうしのまきあと)

2018年2月6日

ページ番号:28091

乳牛牧跡の写真

 古代律令制時代以来、典薬寮(てんやくりょう:朝廷で医薬を取り扱っていた官省)に所属していた牛牧「味原牧(あじふのまき)」がありました。「味原牧」は、摂津市の味原(あじふ)の地から淀川が分流する江口の下流部(現在の南江口・大桐・大道南あたり)に分布していたといわれ、乳牛を飼育していたことから「乳牛牧」と呼ばれていました。
 牛牧の住民は牛を飼育して、牛乳や蘇(そ:牛乳を煮つめて濃くしたもの)、酪(らく:牛乳を精煉した飲料、それから作るチーズなど)を製造するとともに、毎年、母牛と子牛を典薬寮の乳牛院に送ることが義務づけられていました。そのため、一般の所役や雑役を免除され、その特権を活かして次第に田畑を開拓し、その田畑は年貢課役が免除されたため、中世には牧の中に田畑が広がり荘園(私有地)化していきました。
 室町時代には一般の荘園と同様に支配され、やがて摂津守護の支配となり典薬寮の所属から離れました。嘉吉(かきつ)2年(1442年)、摂津守護であった細川持賢(ほそかわもちかた)によって崇禅寺に寄進され、寺領となりました。このことは、平成15年度に大阪市指定文化財に指定された崇禅寺文書(そうぜんじもんじょ)のうちの1つ「細川持賢寄進状」に記されています(公開はされていません)。
 現在の大隅東・西小学校は、大正15年(1926年)に改称する以前は「乳牛牧尋常小学校」と称していました。これは『日本書紀』安閑(あんかん)天皇2年9月条に「牛を難波大隅島と媛島松原に放つ」と記されていること、この付近に乳牛牧があったことにちなむといわれています。大桐5丁目には、乳牛牧跡の碑が建てられています。

(「広報ひがしよどがわ」平成17年1月号に掲載)

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