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融通念仏宗 南源院 遍照山 法明寺(ほうみょうじ)

2022年6月17日

ページ番号:295684

案内板
 貞和(じょうわ)三年(一三四七)融通念仏宗中興(ちゅうこう)の祖(そ)七世法(ほう)明上人(みょうしょうにん)が創建したとされる。江戸時代は融通念仏宗の中本山(ちゅうほんざん)であり、良(りょう)忍(にん)上人(しょうにん)の元祖忌(がんそき)や法明上人の中興忌など、本山大念佛寺(だいねんぶつじ)の大切な法要を、河内末寺の代表として執り行ってきた。壁の五本線がその格式(かくしき)を示している。法名に後を託された喜連の興(こう)善(ぜん)が八世上人となった後は、法明はこの寺に隠居(いんきょ)した。当寺に伝来する銅喚(どうかん)鐘(しょう)の銘文(めいぶん)は喜連西向寺(さいこうじ)が法明寺の前身(ぜんしん)であったことを伝えている。  江戸時代初期の延宝(えんぽう)年間まで融通念仏宗では六ヶ(ろっか)別(べつ)時(じ)という六つの寺院グループが鬮(くじ)引きで本山を決めており、その内の下(しも)別(べつ)時(じ)という喜連西向寺を含むグループのみが、挽き道場(ひきどうじょう)となった時「法(ほう)明寺(みょうじ)」を名乗ることができた。本末制(ほんまつせい)の固まった元禄(げんろく)十年、法明上人ゆかりの西向寺が法明寺として定堂化(じょうどうか)した。平成二十六年六月「下別時関連仏画群」として、寺所有の刺繍(ししゅう)聖徳太子(しょうとくたいし)画像・二畳大(にじょうだい)の刺繍釈迦(しゃか)涅槃図(ねはんず)・銅喚鐘等十三点が大阪市有形文化財に指定された。

【所在地】
平野区喜連4-2-20

【電話番号】
06-6799-1366

大阪市の文化財保護審議委員による「法明寺寺宝」の鑑定

大阪市の文化財保護審議委員による「法明寺寺宝」の鑑定
(平成26年6月 13点の大阪市文化財の指定を受けた)

絹本著色融通念仏亀鐘之縁起

絹本著色融通念仏亀鐘之縁起
これまで末寺では2ヶ寺しか知られていなかった

絹本著色阿弥陀三尊図

絹本著色阿弥陀三尊図
前の法明寺本尊。箱書に「御本仏」と記され、明治18年に掛幅状に修復されている。春日明神の筆とされ、法明が護持し、後に法明寺の本尊としてまつられたという画像である。(『大阪府全志』より抄録)
来迎する阿弥陀如来像を描く。制作年代は室町時代後期まで遡る可能性がある。

刺繍釈迦涅槃図

刺繍釈迦涅槃図(2畳大 右は部分)
縦に三枚の絹をより合せて、背景を金泥で彩色し、釈迦や羅漢、樹木などを刺繍によって表している。

刺繍聖徳太子画像

刺繍聖徳太子画像
刺繍聖徳太子画像は太子16歳当時の姿を写したものといわれている。
刺繍釈迦涅槃図と本図は手法が似ており、同時期に同じ工房で製作されたものではないかと推定されている。

正成の首実検石(兵庫県 須佐の魚御堂)(「融通念仏中興の聖法明上人その生涯と信仰」より)

正成の首実検石(兵庫県 須佐の魚御堂)(「(「融通念仏中興の聖法明上人その生涯と信仰」より)
●法明上人と楠木正成
法明は楠木正成と深い関係にあり、湊川の戦いで正成が敗死した時、首実検に呼び出されている。四条畷の戦で楠木正行が没した時も南朝戦士の弔いをしている(『融通念仏中興の聖法明上人その生涯と信仰』 ) 。
其の頃、喜連には喜連城があり、法明は喜連で南朝方の活動をしていたと思われる。
●喜連と南北朝の戦い年表
1304 法明得度
1318 後醍醐即位
1321 法明中興
1331 後醍醐倒幕 正成挙兵
1333 建武新政
1334 鎌倉幕府滅
1336 楠木正成没
1347 法明寺創建
1348 楠木正行没
1349 法明没(興善)
1371 瓜破城の戦
1392 南北朝合一

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