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報道発表資料 「大坂七墓」のひとつ、「梅田墓」を初めて発掘調査しました

2017年10月17日

ページ番号:413269

問合せ先:教育委員会事務局総務部文化財保護課(06-6208-9069)公益財団法人大阪市博物館協会 大阪文化財研究所(06-6943-6833)

平成29年10月17日 14時発表

 大阪市教育委員会と公益財団法人大阪市博物館協会大阪文化財研究所は、平成29年2月下旬から平成29年6月末まで北区大深町遺跡の発掘調査を実施しました。

 今回の調査では、埋葬人骨が200体以上発見されるなど、江戸~明治時代にかけて営まれた「梅田墓(うめだはか)」の実態を初めて明らかにすることができました。「梅田墓」は、当時に流行した「七墓巡り(ななはかめぐり)」に名前が挙げられる代表的な墓地のひとつです。「大坂七墓(おおさかななはか)」は都市大阪の発展の様子や、庶民の信仰などを知るうえで重要な存在でしたが、具体的な姿や構造はこれまでよくわかっていませんでした。現在、人骨を含め、出土資料はまだ整理・分析の途中ですが、現時点で明らかになった調査の成果を紹介します。

今回の発掘調査の概要

 今回の発掘調査は、「うめきた」2期区域の南西隅に位置し、700平方メートルを対象に実施しました。明治23年(1890年)の地図に示された「梅田墓」のほぼ中央を縦断する位置に当たります(図1・2)。

 発掘調査では、墓地の北と南を区画する石垣、200体を超える土葬人骨のほか、火葬の際に生じた大量の骨灰(残灰)土を含んだ大型の穴(「骨灰土壙」)、廃棄された骨壺、水田跡などが見つかりました(図3)。

発掘調査地の位置

図1 発掘調査地の位置

明治23年(1890年)の地図と調査地

図2 明治23年(1890年)の地図と調査地

さまざまな埋葬のかたち

 確認できた埋葬形態は多様で、図3に示したとおりです。土葬では桶に座位で納めるもの(図3の①・②)や、屈肢形態で穴に納めるもの(図3の③)、土をかけただけと思われる簡単な埋葬(図3の④)、甕棺(かめかん)(図3の⑤)があります。また、火葬に用いられた骨壺もたくさん見つかっています。①~④はそれぞれ集中する範囲が異なり、墓地の内部がさらに区分けされていた状況がうかがえます。また、その造成については、①・②のために必要な盛土(砂)は深い穴から採取され、その土壙を骨灰土で埋め戻した後、③・④が築かれていました。なお、この骨灰土壙は明治23年(1890年)時点の墓地の範囲外に拡がっており、それ以前の墓地はより広い範囲に及んでいたことがうかがえます。

 墓の副葬品には数珠玉、六文銭、簪(かんざし)、酒盃のほか、多様な土人形があり、おはじきが納められた子供の墓もありました。また、調査区北部では20点以上の骨壺を廃棄した跡が見つかりました。骨壺には居住地、人名、没年(えと)を記した墨書があり、居住地については、梅田墓のある「曽根崎村」が最も多く、そのほかに「上福島村」、「海部堀川町(西区靭本町付近)」などのいくつかの地名が確認できました。

 北の石垣には約40個の墓石が転用され、その記銘から墓石の年代は、最も古いものは貞享5年(1688年)、最新は文政8年(1825年)でした。遺跡からは17世紀末~20世紀の遺物が出土しており、貞享年間(1684年~1688年)にこの地に移転し、その後、20世紀初めまで機能したという、これまでの文献史料から推定されてきた時期を裏付けます。


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図3 見つかった墓地

桶埋葬の墓が集中する範囲(図3の①、北東から撮影)
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写真1 桶埋葬の墓が集中する範囲(図3の①、北東から撮影)

桶埋葬の様子(六文銭のほか、徳利のミニチュア、海老・鯛などの土製品が添えられていました)
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写真2 桶埋葬の様子(六文銭のほか、徳利のミニチュア、海老・鯛などの土製品が添えられていました)

屈肢形態の墓が集中する範囲(図3の③、北東から撮影)
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写真3 屈肢形態の墓が集中する範囲(図3の③、北東から撮影)

簡単な埋葬により重なり合って見つかった人骨(図3の④、東から撮影)
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写真4 簡単な埋葬により重なり合って見つかった人骨(図3の④、東から撮影)

墓石を転用した北石垣(北西から撮影)
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写真5 墓石を転用した北石垣(北西から撮影)

調査の意義

 現在、出土遺物はまだ整理分析中ですが、18世紀後半~19世紀末の遺物が混じる墓や遺構が比較的多く、墓地の継続期間のうち、今回の調査区は比較的新しい段階の墓が中心である可能性が高まってきました。このことが、墓地の作り直し(墓石転用の北石垣が顕著)により、それ以前のものが壊されたことを意味するのか、墓地内の地区による違いであるのかは、さらに検討を要します。

 これまで文献史料で断片的にしか知られていなかった「梅田墓」について、その範囲、構造、造成方法などがかなり明らかになったこと、また、大阪の近世から近代の墓制史、「大坂七墓」の実態に近づくことができたことが大きな成果です。また、市内でこれほど一度に多くの古人骨が出土したのは初めてで、今後、出土資料の整理が進めば、墓地や埋葬の実態にとどまらず、当時の庶民生活の一端がより明らかになるものと期待されます。

【用語解説】

■ 大坂七墓(おおさかななはか)

 江戸~明治時代初期に、大坂の町の周辺にあった7箇所の墓地(梅田、南浜蒲生、千日、飛田など、時期によって入れ替わりあり)のことで、現在も継承されているのは、南浜、蒲生の2箇所のみである。江戸時代、諸霊供養のため、陰暦7月16日の宵から翌日の夜明けにかけて、7箇所の墓を参拝する「七墓巡り」が庶民の間で流行した。

 

■ 梅田墓(うめだはか)

 江戸時代初期、天満周辺に散在していた墓所を、曽根崎村(現在の大阪駅前第一ビル付近と推定されている)に分割移転させたのがその始まりで、その後、現在の「うめきた」南西部に貞享年間(1684年~1688年)に再移転されたと考えられている。「大坂七墓」のひとつとしてよく知られ、近松門左衛門の「曽根崎心中」や「心中天網島」などの文学作品にも取り上げられている。明治20年(1897年)頃に有縁の墓石は各所に移転されており、今回見つかったものはその後に残された無縁の墓と考えられる。

 

 

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