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報道発表資料 後期難波宮の南東で石組みの基幹排水溝を発見しました

2017年11月17日

ページ番号:416013

問合せ先:教育委員会事務局総務部文化財保護課(06-6208-9069)公益財団法人大阪市博物館協会 大阪文化財研究所(06-6943-6833)

平成29年11月17日 14時発表

 大阪市教育委員会と公益財団法人大阪市博物館協会大阪文化財研究所は、平成29年5月中旬から平成29年8月中旬まで難波宮跡の発掘調査を実施し、後期難波宮の基幹排水路の一部とみられる大きな石材を用いた溝や、前期難波宮を造った際の土地造成で谷を埋め立てた整地層を発見しました(図1)。

 今回の調査地は後期難波宮朝堂院の約150メートル南東にあり、府営上町住宅の工事に伴って約590平方メートルを発掘しました。 出土資料はまだ整理・分析の途中ですが、現時点で明らかになった調査の成果を報告します。

難波宮造営時の整地層

 上町台地には浸食によって台地が削り込まれた谷が多く埋もれています。難波宮の南にも「上町谷」が東西に延びており(図1)、そこから1本の支谷が難波宮の南東隅に向って入り込んでいます。発掘調査ではこの谷が調査区を横断して発見されました(図1の赤丸印)。谷の幅(東西)は約40メートルで、3.5メートル掘っても底に達しないほどの深さです。当然、このような急峻な地形は難波宮造営時の障害となったはずで、厚さ2.4メートル以上もある客土によって谷は埋め立てられ、平地として造成されていました。整地層からは7世紀半ば頃の遺物が出土したので、整地は前期難波宮の頃に行われたとみられます。整地層は東西に延びており、南側は約15度の傾斜で南へ下がり、厚さも薄くなっていました。この南側では、現況でも谷の窪みが残っており、調査地が整地範囲の端で、ここから南は埋められていなかったことがわかります。調査地は前期難波宮の宮城南門(「朱雀門」)の真東に当り、整地範囲の端がほぼ宮域の外郭ラインを示しているとみてよいでしょう。

発掘調査地の位置
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図1 発掘調査地の位置

後期難波宮の排水溝

 整地層の上では、幅(東西)2.5メートル、長さ(南北)6.0メートル以上、深さ2.2メートルの溝状の落込みが見つかりました(写真1・2)。溝の落込みは垂直に近いほど急で、溝の中は水が流れ、側方を浸食して整地層が崩れた痕跡が認められました。底からは石組みの溝が見つかりました。蓋石の幅は70~100センチメートルほどで、側石は内法約50センチメートルの幅をもって据えられ、側石の間にも底石が据えられていました。いずれの石材も外側には凹凸のある面をもっていましたが、溝の内側には平らな面を向けていました(写真3)。石組みの内部にたまった土は、流水によって堆積しており、溝が水路として機能していたことがわかります。

 石組み溝の中や溝状の落込みからも8世紀の遺物が出土したので、この遺構は後期難波宮の時期のものとみられます。

 この溝を北へ延長していくと、平成16年度の調査などで見つかっている溝に一致します(図2)。この溝は幅約5メートル、深さ50センチメートルで、南北に約280メートルにわたって延びていることになります。宮内から排出された雨水をこの溝に集めて南へ流す基幹排水路であったとみるべきでしょう。南へ導かれた水は、今回の調査地で石組み溝へ落ち、さらに南の谷へと排水されたものとみられます。
石組み溝と基幹排水路(南から撮影)
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写真1 石組み溝と基幹排水路(南から撮影)
画面中央奥の高層住宅の下に南北に延びる基幹排水路があります。南へ流された水は石組み溝へ落ち、さらに南の上町谷へと導かれて排水されたのでしょう。褐色の土は、谷を埋めた前期難波宮の整地層です。手前に向って傾斜し、薄くなっており、この辺りが宮造営のための整地範囲の端であったとみられます。

石組み溝(北から撮影)
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写真2 石組み溝(北から撮影)
石組み溝は素掘りの溝の底に設けられています。溝の内部には流水の痕跡がありました(木杭は旧住棟の基礎)。

石組み溝の細部(東から撮影)
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写真3 石組み溝の細部(東から撮影)
蓋石を一個外した状態です。底石と側石の平らな面が見えています。

難波宮と石組み溝の位置
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図2 難波宮と石組み溝の位置

調査の意義

 後期難波宮の排水溝は、これまで断片的な調査例しかなく、よくわかっていませんでした。今回の発見によって、基幹的な排水路の一端が明らかになりました。

 今回の石組み溝も含めて、今まで見つかっている後期難波宮の排水溝を総合してみると、内裏、大極殿院、朝堂院等の宮殿中心部から東西(外方)へ排水し、南北に延びる基幹排水路へ集めて南北の低所へ導く排水計画がみえてきます(図2)。また、排水路の末端まで丁寧な工事が行われていることから、後期難波宮造営時の意気込みが感じられます。こうした状況によると、やはり後期難波宮は周到に設計、施工されたことがわかります。

 今回の基幹排水路については、宮殿の中軸線から168メートル東にあり、西に158メートルの距離にも溝が発見されています。この160メートル前後という数値は朝堂院の東西幅とほぼ等しいことから、これらの溝は排水路であるばかりでなく、宮殿の周縁部を画する区画溝であった可能性を示しており、高い計画性に基づいて設けられたことを示しています。後期難波宮は、中枢部(内裏・大極殿院・朝堂院)以外の周縁部の構造についてはほとんどわかっていません。今回発見の溝のような遺構が、こうした問題を解く鍵になるかもしれません。

【用語解説】

  • 前期難波宮(ぜんきなにわのみや)

 孝徳天皇によって造営された「難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)」と考えられている。蘇我氏を滅ぼした乙巳(いっし)の変(645年)ののちに飛鳥から難波に遷都され、その完成は白雉3年(652年)と『日本書紀』に記されている。国内最初の本格的な大陸風宮殿で、建物はすべて掘立柱式で瓦を用いない特徴をもつ。朱鳥元年(686年)に火災によって主要な部分をすべて焼失した。

  • 後期難波宮(こうきなにわのみや)

 神亀3年(726年)から聖武天皇によって造営が始められた宮殿。前期難波宮と同じ中心軸の上に建てられている。大極殿や朝堂院など中心部の建物は瓦葺き、礎石建ちが採用されている。長岡遷都(784 年)に伴って廃された。

  • 内裏(だいり)

 宮殿における天皇の居住する空間。後期難波宮においては、大極殿院と分離してその後方にあり、外郭は複廊によって区画される。東西174.5メートル、南北規模は未確認。

  • 大極殿(だいごくでん)

 大極殿は、即位など国家の重要儀式に際して天皇が出御した建物で、後期難波宮の大極殿は基壇を有する礎石建物である。大極殿の位置する区画を大極殿院といい、東西106.2メートル、南北80.5メートルの規模である。

  • 朝堂院(ちょうどういん)
 さまざまな朝政や儀式が行われた場で、中央の朝庭とそれを取り囲む朝堂からなり、臣下が着座した。後期難波宮では八朝堂が配され、周囲には築地塀などが巡らされて、南に五間門が開いていた。

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