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靱公園の歴史

[2015年9月14日]

名前の由来 ~なぜ「靱(うつぼ)」と名づけられたの?~

ある日、豊臣秀吉がお供を従えて市中を巡視した際、町で魚商人たちが

「やすい、やすい」と威勢のよい掛け声で売っているのを耳にして、

「やす(矢巣)とは靱(矢を入れる道具)」と言ったそうです。

そのことにあやかって、靱という町名がつけられたと伝えられています。

 (「西区むかしの物語」西区役所発行より)

靱公園のむかしの姿

戦前はまだ「なにわ筋」が建設されておらず、現在の靱公園の東園と西園は

くっついたままの細長い長方形の姿をしていました。

昭和20年3月14日の空襲で一面の焼け野原と化し、終戦後は進駐軍の飛行場と

なっていました。

飛行場の写真です
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今とは全く違う風景です。飛行場が真ん中にあって、本当にここが大阪?と疑ってしまいますね。

靱公園の開設にむけて

昭和21年に戦災復興区画整理事業の公園と決定し、翌22年には都市計画公園

として認可されます。しかし、進駐軍の飛行場だったことから、すぐには着工でき

ませんでした。

その後、昭和27年6月25日、土地の返還をうけ同年7月1日工事を着工しました。

 

靱公園建設用地



建設中の靱公園

重機で整備している様子。







戦後できた公園としては最も大きい公園でした。工事の大部分が失業対策事業で行われたのも特色の一つです。従事した労働者は、延べ約20万人といわれています。

整備中のテニスコート





整備中のテニスコート

植樹されたケヤキ
整備中の靱公園
整備された園内1





徐々に園内の花壇や噴水も整備されてゆきます。遊具も設置され、公園らしい姿になってきました。

整備された園内2
設置された遊具
整備当初の靱公園
整備された噴水
整備された靱公園
整備完成当初の靱公園1
整備完成当初の靱公園2

靱公園完成~開園式の様子~

昭和30年10月21日に竣工、開園式が行われました。

建設省関係者をはじめ、在阪衆・参両院議員、府、市会議員など関係者500人が出席する盛大な式典でした。                      

式後には中学生のマスゲームやサッカー、テニスの模範試合などが行われました。

靱公園開園当時の写真




いよいよ開園を迎えることになりました。当時の様子をおさめた貴重な写真をご紹介します。

開園式の様子1
開園式の様子2
開園式の様子3
開園式の様子4
マスゲームの様子
サッカーの試合の様子
市民で賑わう園内1
市民で賑わう園内2
噴水と子ども達
整備完成後の航空写真

整備完成後の靱公園航空写真(産経新聞社提供)

このページの作成者・問合せ先

大阪市建設局西部方面管理事務所大阪城公園事務所

住所: 〒540-0002 大阪市中央区大阪城3丁目11番(大阪城公園内)

電話: 06-6941-1144 ファックス: 06-6943-6877

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