ページの先頭です
メニューの終端です。

難波橋(なにわばし)

2010年3月30日

ページ番号:928

 昭和5年(1930)に始まった御堂筋の拡幅工事により、現在の市内主要幹線道路は御堂筋であると誰もが認めるところである。しかし、それ以前の浪花を代表する南北道は堺筋であった。難波橋は、土佐堀川・中之島公園・堂島川にまたがっている橋で、北詰は西天満一丁目、中間は中之島一丁目、南詰は北浜二丁目となっている。橋上をその堺筋が通る。この橋は、江戸時代には一筋西の難波橋筋に架かっており、大川をまたいでいた。北詰は樋之上町、南詰は北浜一丁目となる。橋長は108間というから約207メートル、橋幅が3間、約5.7メートル。寛文元年(1661)天神橋とともに公儀橋となった。
 橋詰には上荷船札(うわにぶねふだ)、一般に言う高札(こうさつ)が設置されていた。この高札の修復費は、船方の連中が負担することとなっていた。船方とは、船に乗ることを職業とする者を指している。また、出火時には船方と橋掛り町が「取りのけ人足」を出したことがわかっている。全国の公儀橋の例から考えると、公の橋でありながら橋掃除などの入用は橋掛り町にかかっていたとするのが妥当であろう。町橋はその普請・管理を含めて橋掛り町が負担するのが通例であり、最も橋に近い町の負担が高く、離れるほど負担率が軽減されていくシステムとなっていた。
 この難波橋の辺りは、江戸時代から夕涼みの場所として特に親しまれていた。大阪くらしの今昔館10階展望フロア通路に設置しているパネルは浪花の絵師・松川半山(まつかわはんざん)が描いた「納涼風俗図」を採用している。まさに大川に夕涼みに来る人々と客目当ての茶店など種々描かれており、幕末の庶民のくらしぶりを彷彿させるものがある。ぜひご覧いただきたい。さらに難波橋上からの眺めもまたすばらしく、10有余の橋を見渡せるほどであったと伝えられる。
 明治9年(1876)北側が鉄橋となり、同19年(1886)橋柱が鉄材に変えられ、さらに同45年(1912)完成した市電堺筋線を北浜から天神橋筋六丁目へ延伸する際に現在の位置に移された。市章を組み入れた高欄、親柱にあしらったライオン彫刻など独特の雰囲気を持つ。これらは中之島水上公園計画の一部として設計されたためである。
(大阪くらしの今昔館 学芸員 明珍健二)

 

難波橋

 

地図

探している情報が見つからない