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川崎橋(かわさきばし)

2010年3月30日

ページ番号:973

 「天満川崎より備前島への舟渡しなり 上は網島さくらの宮 下は天満宮 向こうは巍々たる金城ありて目ざましくして奇観なり」
 「天満川崎渡し」として摂津名所図会大成に載せられた紹介文である。もともと右岸の天満川崎と左岸の備前島を結ぶ「渡し」があった場所なのである。
 さて、天満川崎は江戸時代から明治時代にかけて大坂にとってたいへん重要な場所として記憶されている。文化3年(1806)改正摂州大阪地図をみると、川崎東照宮・川崎御蔵・材木蔵・破損奉行屋敷・町奉行与力屋敷などが記される。川崎東照宮はいわずと知れた徳川家康を祀る神社。家康の死後、大坂藩主松平忠明が勧請した。この地はもともと有楽斎織田長益の別荘地があったところで、元和3年(1617)社殿が完成する。毎年4月と9月には権現祭があり、とくに4月の「御正忌」はたいへん賑わった。摂津名所図会大成によると大坂三郷から金幣・香奠が出され「天満御宮」として知られていた。明治6年(1873) 廃社。川崎御蔵は、寛政元年(1789)に町奉行所付御救米蔵として建設されたもので、天保の飢饉の際には施米に役立っている。
 明治4年(1871)破損奉行所・川崎御蔵・材木蔵の跡に日本最初の近代貨幣鋳造所が建設された。明治政府は新貨幣制度の整備のため会計官中に造幣局を設置し、のちに大蔵省造幣寮と改称した。造幣寮には英国人・キンドルを招聘し貨幣鋳造を行い、大阪の近代工業の発展に多大な貢献をした。現在われわれが楽しみにしている桜の「通抜け」は明治16年(1883)に始まっている。また、隣接する泉布観は、造幣寮に明治天皇が行幸した際に外国人応接用に建てられた建物。明治四年完成。一方、対岸の備前島(都島区網島町)は、大阪城の京橋口に接し、京街道・大和街道に通じる要衝の地であった。
 明治10年(1877)ここに私設橋が架けられたが18年に流失。渡しが復活し通っていたが、再び橋が架けられたのは昭和53年。中之島公園と千里万博公園を結ぶ大規模自転車道の一環として架設された自転車・歩行者専用の川崎橋の完成である。橋形式は高い塔からケーブルを出し桁を吊った斜張橋で、景観を重視した橋として名高い。ライトアップされた姿は夜景に映える。
(大阪くらしの今昔館 学芸員 明珍健二)

 

川崎橋

 

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