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大阪市中央公会堂

2009年3月16日

ページ番号:1025

 中之島に建つ赤レンガ建築として有名な大阪市中央公会堂は、大正七年(一九一八)十月に北浜の株式仲買商岩本栄之助の寄付により竣工しました。その意匠は、ネオ・ルネッサンスを基調にバロックの要素が加味されたところに特色がみられ、大正を代表する名建築として平成十四年に国の重要文化財に指定されました。
 では、公会堂の特色であるこの意匠は、どのように生まれてきたのでしょうか。
 岩本栄之助が公会堂の寄付を決めたのは明治四四年(一九一一)のことで、すぐに公会堂建設のための財団法人が設立され、建築顧問として日本の建築会の第一人者であった辰野金吾が委嘱されました。そして設計については、当時まだ珍しかった設計競技が実施されたのです。参加したのは日本を代表する十三名の建築家で、伊東忠太・武田五一・片岡安などが名を連ねていました。このうち一等に入選したのが、弱冠二九歳であった岡田信一郎でした。彼は明治十六年に東京で生まれ、明治三九年に東京帝国大学工科大学建築学科を卒業し、その後警視庁・東京美術学校を経て、同四四年からは早稲田大学理工科建築学科で講師を務めていました。
 さて、岡田案では正面中央に大アーチとコンポジット式オーダーと呼ばれる柱頭様式をもつ四本の柱が配され、またその両横に突き出た階段室には長大な窓と丸窓が開き、頂部にはクーポラ(小ドーム)が載せられていました。全体に壮麗で、ネオ・バロックを基調としたものでした。しかし、この岡田案をもとに実施設計をおこなった辰野金吾は、規模を縮小するとともに外観意匠についても修正を加えていました。辰野は赤レンガと花崗岩を組み合わせた独自な古典的様式を得意とし、その意匠は辰野式とも呼ばれています。修正された公会堂も、外観は岡田案で見られたバロック的な要素は取り除かれ、ネオ・ルネッサンス風の意匠となっていました。
 こうして現在みる公会堂が完成しました。もし、岡田案のままの公会堂が建てられていたら、また違った雰囲気となっていたでしょう。
(住まいのミュージアム学芸員 新谷 昭夫)

 

大阪市中央公会堂

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