ページの先頭です

難波宮跡出土蓮華文軒丸瓦・重圏文軒丸瓦 2点

2019年1月9日

ページ番号:8805

難波宮跡出土蓮華文軒丸瓦・重圏文軒丸瓦

なにわのみやあとしゅつどれんげもんのきまるがわら・じゅうけんもんのきまるがわら

分野/部門

有形文化財/考古資料

所有者

大阪市

出土地

大阪市中央区馬場町

紹介

難波宮跡出土軒丸瓦 (左)蓮華文 (右)重圏文 写真

 難波宮跡は中央区馬場町・法円坂1丁目を中心に広がる飛鳥~奈良時代の宮殿跡である。50年間にわたる発掘調査によって、7世紀後半と8世紀前後半の2時期に宮殿が営まれたことが判明し、前者を前期難波宮、後者を後期難波宮と呼んでいる。
 これら2つの瓦は大正2年(1913)の旧陸軍被服支廠倉庫建設工事の際に出土し、第四師団の技師であった置塩章(おしおあきら)氏によって採集・保管されていた。瓦を置塩氏より見せられた山根徳太郎博士は、当時大阪市民博物館の開館準備で資料収集を担当しており、瓦は同博物館に展示されることとなって、第2次大戦後は大阪城天守閣に引き継がれた。
 山根博士は後の著書においても、法円坂一帯で難波宮の発掘調査を始めた経緯として、まずこの瓦に出会ったことを大きく取り上げている。昭和29年(1954)から始まる本格的発掘調査の直接の契機となった鴟尾の発見とともに、難波宮の発掘調査研究の端緒を開いた貴重な資料である。
 この瓦が最初に報告されたのは大正5年(1916)の『史蹟調査委員会報』第1号である。「大阪城南にて発掘せる奈良朝古瓦」と題して、写真とともに以下の解説がある。
 「従来、難波宮趾の位置につきては諸説一定せず。今この奈良朝古瓦の発掘に徴し、此種巴瓦が当時の宮殿堂宇に用いられたるより見て、難波長柄豊崎宮、又は難波宮の大阪城南高地にありしものならんとは、此他諸種の事情に徴して推定するに難からずとの説あり。兎も角、此古瓦の発掘は極めて重要なる一史料として注意すべく、其の蒼古、雅趣亦頗る珍とすべし。」
これは瓦という物的証拠によって法円坂に難波宮の存在を推定した初めての文献であり、この瓦の発見が江戸時代以来長きにわたって論争が続いてきた難波宮の所在地論争の大きな変換点であったことがうかがえる。
 1つは複弁八葉蓮華文軒丸瓦(ふくべんはちようれんげもんのきまるがわら)である。丸瓦部の大半と瓦当の外区の1/3を欠く。瓦当は直径16.1cmで、中房から内区の部分が盛り上がった凹凸の著しい形状である。外区内縁には21個の珠文(しゅもん)を配し、外縁は凸線鋸歯文をもつ内向する斜縁である。もう1つの瓦は重圏文軒丸瓦である。丸瓦部の大半を欠くが瓦当は完存している。瓦当は直径16.0cmで、三重の圏線は太く、外縁は直立縁である。難波宮ではこれまで17種類以上の重圏文軒丸瓦が確認されているが、この瓦はその中でも出土数が少なく後期難波宮でも新しい時期のものと考えられる。
 この2つの瓦は文献史料のみで行われてきた難波宮の研究にあって、考古資料が研究材料となった最初のものである。

用語解説

山根徳太郎(やまねとくたろう) 日本の考古学者(1889-1973)。文献史料に記載されていたが所在地が不明のままであった難波宮の研究を行い、難波宮の大極殿跡を発掘した

瓦当(がとう) 軒丸瓦の先端の円形または半円形の部分。文様のある面

参考文献

『史蹟調査委員会報』第1号(大阪府 1916)

山根徳太郎『難波の宮』(学生社 1964)

『難波宮址の研究』第10(大阪市文化財協会 1995)

佐藤隆「戦前に出土した難波宮の瓦~難波宮第一号瓦の研究史的意義~」(『大阪文化財研究所 研究紀要』第13号 2011)

 

⇒「大阪市指定文化財(平成15年度)」にもどる

探している情報が見つからない

このページの作成者・問合せ先

教育委員会事務局 生涯学習部 文化財保護担当
電話: 06-6208-9166 ファックス: 06-6201-5759
住所: 〒530-8201 大阪市北区中之島1丁目3番20号(大阪市役所3階)