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統国寺大雄殿 1棟

2019年1月9日

ページ番号:8847

統国寺大雄殿

とうこくじだいゆうでん

分野/部門

有形文化財/建造物

所有者

宗教法人 統国寺

所在地

大阪市天王寺区茶臼山町

紹介

統国寺大雄殿 写真

 統国寺の創立は詳らかではないが、聖徳太子の開創と伝え、かつては深妙院念仏寺と号し、法相宗に属していたという。伽藍諸堂宇(がらんしょどうう)は元和元年(1615)の大坂夏の陣の兵火によって焼失したが、元禄16年(1703)法源和尚によって大雄殿が再建された。寺は近代に入って衰退した時期もあったが、現在は統国寺と名を改め、境内の整備もすすめられている。
 大雄殿は寄棟造り、錣葺き(しころぶき)、本瓦葺きで、建ちの高い建物である。平面は正面5間(実長8間)、側面4間(実長6間)で、やや横に長い。内部に入側柱はなく身舎柱(四天柱)を建てるのみで、その周囲に側柱を建てる。四天柱は奥行には柱筋を揃えるが、桁行には大きくずれる。堂内は現在は仏壇部を除き板張り畳敷きとしているが、当初は土間であり瓦の四半敷きであった。正面の柱間装置は復元すると中央3間が桟唐戸(中央のみ双折れ桟唐戸)で、両端間が腰板で上部が丸窓であった。両側手前1間は桟唐戸であった。
 内部は質素な外観と異なり、創意に満ちた広がりのある空間が構成されている。身舎柱間には根肘木付きの大きな虹梁形頭貫を通し、柱上に大斗絵様肘木を2 組おいて、天井を支える。身舎柱と対向の側柱は、桁行では繋虹梁を用い、梁行では柱筋がずれるため海老虹梁を側柱の軒桁に繋いでいる。天井はこれらの繋虹梁や海老虹梁上の蓑束(みのづか)や大瓶束(たいへいづか)によって支えられている。こうした架構と天井の構成は他にあまり類例のないものであり、緩やかな海老虹梁と繋虹梁の対比などの変化とリズム感に富み、様ざまな様式技法を破綻なくまとめている。
 江戸時代以降の黄檗宗(おうばくしゅう)様式の寺院は、身舎柱と側柱を揃えるものが多いが、その点、統国寺大雄殿は進歩的といえる。ただし江戸中期以降は身舎柱の省略がすすみ、来迎柱のみとなることが多い。また側面前方の柱間を戸口を設ける手法は古制を伝えている。また側柱を省略した平面は開放的な広がりに力点が置かれており、細部様式も視点の移動に伴い変化に富んでいる。こうした空間が可能となったのは、建ちの高い側柱を用い身舎柱との高低差を少なくし、曲がりのゆるい海老虹梁を用いることによって上昇感をおさえ、空間の拡がりを強調することができたものである。
 異色の黄檗宗仏殿として極めて重要な遺構といえる。

用語解説

伽藍(がらん) 仏道を修める所。ひいては寺の建物。寺院。主に、俗世間との境界を示す山門、本尊を祀る本堂、仏塔、学習の場である講堂、僧の住居である庫裏、食堂(じきどう)、鐘楼、東司(とうす)などで構成される。これらの要素の名称、配置や数は宗派、時代によって異なる

錣葺き(しころぶき) 兜の錣を垂らしたように、途中で流れを変えて二段にした屋根の葺き方

虹梁(こうりょう) 寺社建築で用いられる柱間に掛け渡した装飾的な梁で、弓型に湾曲した形状を有する。虹のように反っているので、このように呼ばれる

頭貫(かしらぬき) 柱と柱を上部でつなぐために柱の頭部に用いる横木。

黄檗宗様式(おうばくしゅうようしき) 黄檗宗の伝来に伴い、中国・明清時代の建築様式を伝えたもの。黄檗宗は日本における仏教の宗派で、臨済宗・曹洞宗に次ぐ禅宗の一派であるが、他の禅宗寺院の配置と異なる様式を用いる

参考文献

東野良平「統国寺大雄宝殿について」(『日本建築学会大会学術講演梗概集』1989)

大阪府教育委員会『大阪府の近世社寺建築大阪府』1987

 

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