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絹本著色了源画像 1幅

2019年1月9日

ページ番号:8993

絹本著色了源画像

けんぽんちゃくしょくりょうげんがぞう

分野/部門

有形文化財/美術工芸品〔絵画〕

所有者

宗教法人 光用寺

所在地

大阪市淀川区西中島7

紹介

絹本著色了源画像 写真

 仏光寺7世門主である了源(1295~1335)は、相模国山下の人で、6世明光に帰依した。本願寺3世門主である覚如の子の存覚とも親しく、元応2年(1320)に山城国山科に堂宇の建立を発願し、積極的に勧進を行った。結縁した者の名を記す名帳や絵系図を用いた布教は大きな支持を集め、仏光寺教団は飛躍的な発展を遂げた。元亨3年(1323)には山科に興正寺が完成し、元徳2年(1330)に洛東の渋谷に移り仏光寺と改称した。その後仏光寺は焼失するが、建武元年(1334)には了源の尽力もあり再建された。しかし翌年に了源は賊難により不慮の死を遂げた。活躍の期間は短かったが、仏光寺教団の勢力を拡大し、その基盤をゆるぎないものにした人物で、仏光寺派の中興の祖と呼ばれ、後の時代にもあつい信仰を集めた。

 光用寺には、中世にさかのぼる絵画史料がいくつか伝来しており、それらはいずれも仏光寺派の勢力が淀川沿岸に及んでいたことを示すもので、中世の大阪を考えるうえで極めて重要な史料である。それらのひとつが了源画像である。

 この画像は、屏障を伴った牀座の上に敷かれた上畳に、右斜めを向いて坐す了源を描く。前机には3冊の経本を並べる。この図様は肖像画としては非常に豪華なもので、仏光寺派特有の形式である。画面右上方に銘札があるが、現在は剥落して判読することができない。そのため、当初から了源画像として造立されたものかどうかは不明であり、一説には6世門主である明光の肖像画ではないかともいわれている。

 面相の描写は写実的で、着衣や牀座の筆致も形式化を示しながらも精緻な表現がとられていることなどを勘案すると、制作年代は南北朝時代から室町時代初期と考えられる。真宗系の肖像画として全国的に見ても古い作例のひとつであるだけでなく、真宗系に限らず、市内の在地に残る肖像画としては非常に古いもののひとつである。

用語解説

屏障(へいしょう) 屏風や衝立の類のこと。この画像では了源の背後にある背もたれ状の部分
牀座(しょうざ) いす。台座の類のこと

参考文献

信仰の造型的表現研究委員会編『真宗重宝聚英』(同朋舎 1987年)
『大阪市内真宗寺院の遺宝』(大阪市立博物館 1993年)
『仏光寺の歴史と信仰』(思文閣 1989年)

 

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