ページの先頭です

浄願寺真宗関係史料 一括(2点)

2019年1月9日

ページ番号:9084

浄願寺真宗関係史料

じょうがんじしんしゅうかんけいしりょう

絹本著色方便法身阿弥陀如来画像2幅

分野/部門

有形文化財/歴史資料

所有者

宗教法人 浄願寺

所在地

大阪市旭区今市1

紹介

浄願寺真宗関係史料 方便発身阿弥陀如来画像 写真

 浄願寺は、榎並庄(えなみのしょう)域にあたる旭区今市に所在する本願寺派に所属する真宗寺院である。永正元年(1504)、一説には永正7年(1510)に、榎並の住人浄空(じょうくう)が、本願寺9世門主である実如(じつにょ)に帰依して建立したという。
 榎並庄は淀川と大和川に挟まれた低湿地に展開した荘園であり、その領域は旭区から城東区、鶴見区、都島区、さらには守口市域にまで及ぶ。15世紀末から 16世紀前半には、摂津・河内地域は内乱状態にあり、榎並庄域も例外ではなく、京都と大坂の地を結ぶ交通の要所にあたり、難攻不落といわれた榎並城を巡って、様々な勢力がしのぎを削っていた。8世門主蓮如(れんにょ)の時代に爆発的に勢力を拡大した本願寺教団の教化が、榎並庄域に浸透していくのはまさにこの時代である。10世門主証如(しょうにょ)の時代を記した『天文(てんぶん)日記』には、榎並の地名が幾度となく登場し、榎並四ヶ所(よかしょ)や十七ケ所(じゅしちかしょ)と呼ばれる門徒衆(もんとしゅう)の拠点が存在していたことがわかる。また、同じく天文5~6年(1536~37)にかけての記述からは、浄願寺の所在する旭区今市・太子橋から守口市西部を指す地名である高瀬(たかせ)地域に、包安(ほうあん)兄弟という門徒衆のリーダー的な人物が居住していたことがうかがえる。
 浄願寺に伝来する2幅の方便法身阿弥陀如来画像(ほうべんほっしんあみだにょらいがぞう)は、いずれも裏書から15世紀末から16世紀前半に本願寺から榎並高瀬の地に下付されたものであることがわかる、在地に伝来するこの時代の数少ない一次史料である。
 このうち1幅は、実如による裏書を伴う画像である。この種の画像の通例として、正面向きに来迎印(らいごういん)を結んで立つ阿弥陀如来像を描いている。螺髪(らほつ)と肉髻珠(にっけいじゅ)はかなり大振りである。髪際(ほっさい)の線は中央が下がり、そこから左右に剃り込みが入るように描かれている。中央の下がっている部分は鈍角状を呈し、通例よく見られるような波打つ形ではない。螺髪は群青(ぐんじょう)で、肉髻相と口唇は朱であらわされる。眉、黒眼、髭、面相部の稜線や三道相(さんどうそう)は墨であらわされる。大衣(たいえ)、褊衫(へんさん)、裙(くん)を着す。大衣の端は右肩にかかり、胸前部分は右に褊衫のたくしこみが、左に褊衫もしくは内衣(ないえ)のたるみが見られる。また、裙の上部が腹前から覗いている。肉身部は金泥(きんでい)により彩色され、衣部(えぶ)は截金(きりがね)によって文様が施される。
 衣部の截金文様は、方便法身阿弥陀如来画像の編年の研究において、年代決定の指標のひとつとなっている。この画像は大衣の田相部(でんそうぶ)には卍繋ぎ文(まんじつなぎもん)、条葉部(じょうようぶ)には多弁の花文(かもん)を描いている。大衣の裏は網目文(あみめもん)である。褊衫の表には麻の葉繋ぎ文(あさのはつなぎもん)、縁には波状文(はじょうもん)、褊衫裏には斜格子文(しゃこうしもん)が描かれている。裙には石畳文(せきじょうもん)が描かれ、縁と裙の腹前に出る上縁については亀甲繋ぎ文(きっこうつなぎもん)が施されている。この文様は、実如期の画像のものとしてよく見られるものである。
 背面には円相(えんそう)と四十八光(しじゅうはちこう)が描かれる。四十八光は頭頂部からV字状に伸び、ほぼ一点から放射状に描かれている。円相の頭頂部後方と周縁部には金泥により彩色が施される。光明の中心には截金が一条施される。
 この画像は裏書を同伴している。門主証判部分は右半分が破損しており判読しづらいが、重い筆致と残された花押(かおう)の形状から、実如によるものと推定される。年号部分は破損しているが、干支が「癸丑(みずのとうし)」と判読でき、実如在世中でこの干支に当てはまる、蓮如存命中の明応2年(1493)の下付と考えられる。宛所部分は「摂州」「榎並中高□(瀬か)」「願主釈□□」の文字を判読することができ、榎並庄の高瀬地域に下付された本尊であることがわかる。
 もう1幅は、証如による裏書を伴う画像である。仏身高(ぶっしんこう)は実如裏書の画像に比べてひとまわり小作りである。髪際の線は中央がわずかに下がるが、ほぼ水平である。螺髪、眉、髭は群青で、肉髻相と口唇は朱で描かれる。眼は墨と朱であらわされる。面相部の稜線や三道相は朱であらわされるが、これは補彩である。服制(ふくせい)、光明、截金文様は、実如裏書の画像と同様である。しかし、衲衣(のうえ)の田相部の卍繋ぎ文部分を比較すると、精緻さで少し劣る。
 この画像は天文3年(1534)の裏書を同伴している。全体に痛みがひどく、証判部分も破損しているが、年紀は「甲午(きのえうま)」の干支も含めてはっきりと判読でき、筆致もこの時期の本願寺門主である証如自身の筆によるものと考えられる。宛所は「興正寺門徒□津□(摂津国か)西成郡榎並中高瀬今市惣道場物」と記されている。このことから、証如から今市惣道場に下付された本尊であることがわかる。浄願寺は今市に所在しており、おそらくこの今市惣道場が浄願寺の前身と考えられる。実如裏書の本尊は、高瀬地域の他の道場に下付された本尊が、浄願寺に伝来したものと推測される。
 この2幅の画像は、『天文日記』に登場する榎並高瀬の包安兄弟との関連など不明な点もあるが、本願寺教団の榎並地域への勢力浸透を裏付ける貴重な史料である。
 なお、証如は、天文3年12月に、野田の惣道場宛に方便法身阿弥陀如来画像を下付している。榎並が京街道沿いに位置する交通の要所であるのと同様に、野田も摂津・河内と西国を結ぶ中国街道筋にあたる交通の要所であった。いずれも戦略上重要な拠点であり、ほぼ同時に本尊が下付されていることは興味深い。

用語解説

蓮如(れんにょ) 室町時代の浄土真宗の僧侶(1415-1499)。本願寺第8世。本願寺中興の祖

螺髪(らほつ) 巻き毛状になった如来の髪

肉髻珠(にっけいじゅ) 仏の頭の肉髻部と地髪部(じはつぶ)の境の正面にある朱色の玉

肉髻相(にっけいそう) 仏の身体的特徴を現す三十二相の一つ。肉髻は如来の頭頂部に一段高く隆起している部分で、悟りを開いた証とされる

大衣(たいえ) 僧が着る袈裟の一つ。僧の正装衣で、9条から25条の布片を縫い合わせた1枚の布からなる。僧伽梨衣(そうぎゃりえ)とも呼ぶ

褊衫(へんさん) 両袖を備えた上半身をおおう法衣。下半身に裙子(くんす)をつける

裙(くん) 着物・装束の裾。裳裾(もすそ)

参考文献

『大阪市文化財総合調査報告書19 旭区所在史料について(1)』(大阪市教育委員会 2000)

 

⇒「大阪市の指定文化財(平成16年度)」にもどる

探している情報が見つからない

このページの作成者・問合せ先

教育委員会事務局 生涯学習部 文化財保護担当
電話: 06-6208-9166 ファックス: 06-6201-5759
住所: 〒530-8201 大阪市北区中之島1丁目3番20号(大阪市役所3階)