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骨仏の信仰習俗

2019年1月9日

ページ番号:9102

骨仏の信仰習俗

こつぶつのしんこうしゅうぞく

分野/部門

無形民俗文化財

保持団体

宗教法人 一心寺(いっしんじ)

所在地

大阪市天王寺区逢阪2

紹介

骨仏 写真

 四天王寺の西門周辺は、平安時代後期以降、浄土教の浸透とともに、西方浄土への入り口を体現した聖地として、特別な信仰を集めた地域である。上町台地から大阪湾に沈んでいく夕陽から、西方浄土を憶念して極楽往生を願うという、日想観の修地として栄え、熊野街道に隣接するという地理も作用して、様々な階層の人々が数多く参詣に訪れた。
 白河院、鳥羽院、後白河院が足繁く参詣し、念仏行者に結縁したことが『台記』『玉葉』などの記録類に見えることはよく知られている。また、鎌倉末期の「法然上人行状絵図」からは、四天王寺西門付近での病者への施行がうかがえる。四天王寺西門から逢阪を少し下ったところの南側に位置する一心寺は、文治元年(1185)に四天王寺の慈鎮が法然を招くために建立した草庵が端緒という。その後慶長年間(1596~1615)以降、徳川氏との関係が強まり再興が図られた。
 日想観の聖地という土地柄からか、一心寺には納骨が非常に多かったという。四天王寺西門の石鳥居が寛文9年(1669)に修復を行った際の納入品に、結縁者の名前を記した帳面や経木札に加えて、火葬骨が含まれることは、当時から浄土の聖地に骨を納めるという習俗が存在したことをうかがわせる。
 一心寺では、時の住持である顕秀和尚の発案で、嘉永4年(1851)から明治20年(1887)までに納められた約5万体の骨を、粉末にしてセメントと混ぜあわせ阿弥陀如来像を造像してまつった。これが骨仏の端緒という。
 明治36年(1903)刊行の『大阪府誌』には「納骨堂と称するものありて人骨を以って固め作れる阿弥陀の像を安置す」という記述があり、既に広く信仰を集めていたことがわかる。その後はほぼ10年ごとに阿弥陀如来像が一体ずつ造像された。昭和13年 (1938)には約20万体の骨をもとに第6期の骨仏が完成し、第2次世界大戦までに合計6体が造像された。これらは戦災により亡失したが、その破片に新たに約22万体の骨を加え、昭和24年(1949)に第7期の骨仏が完成した。定印を結ぶ等身大の阿弥陀如来坐像である。以降もこの像様が踏襲され、現在、第12期までの骨仏の造像が行われ、納骨堂に安置されている。
 全国的に見ると、大正4年(1915)の姫路市光明寺の如来坐像の造立、関東大震災の被災者の骨を用いた、東京の重願寺・築地本願寺などの事例があるが、近代初頭に遡る一心寺の骨仏が最も古く、他例に先立つものと考えられる。また、日想観の聖地に、極楽往生を願って納められた骨を用いるという、特別な土地柄に付随する信仰を踏まえており、大阪の人々に広く受け入れられ、現在まで継続して造像が試みられているという点て、極めて特色のある習俗と位置付けられる。
 17世紀の四天王寺石鳥居の中に骨を納入して結縁するという信仰の延長上にあるが、結縁者の骨を礼拝の対象となる阿弥陀如来像に転化させるという発想は独創的であり、直接的な点が、ある意味非常に大阪らしいといえる。大阪市域に伝わる信仰にかかわる習俗のうちでも、極めて特色のあるものである。

用語解説

慈鎮(じちん) 天台宗の僧侶、慈円(1155-1225)の諡号(しごう)。史論書「愚管抄」の著者

参考文献

大阪府編 『大阪府誌』第5編(1903)
藤井正雄 『骨のフォークロア』(1988)
一心寺 『お骨仏の寺 一心寺』

 

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