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デジタルギャラリー2012

2017年2月10日

ページ番号:244917

公文書・刊行物からみた大阪市の産業

はじめに

 大阪は、古来、都のあった奈良・京都をはじめ国内各地や大陸などを結ぶ水路・陸路の要に位置していたため、国内流通の拠点都市、また、国際交流の窓口である港湾都市として発展してきました。

 そして、7世紀中ごろから約150年間は、国都・※陪都(ばいと)として政治・文化の中心にもなり栄えました。それから約700年後の15世紀末、上町台地の北に石山本願寺ができ寺内町がつくられた時期も、従来にも増してにぎわいました。

 つづいて、豊臣秀吉が石山本願寺の跡に大坂城を築いて城下町を整備し、そこに周辺から商人や職人を集め、海外貿易を含めた商業の保護・育成に努めました。その結果、大坂は、再び政治の中心となり、商業もより盛んになって大いに栄えました。

 江戸時代になった当時(17世紀初め)、大坂は戦乱で荒廃していました。幕府は、大坂が西日本の政治的・経済的な要衝であることから、直轄地にして町の復興・整備を急速に進め、政治・消費の都市である江戸に対して、生産・流通・金融を一手に担う経済都市として発展させました。その結果、18世紀には大坂は「天下の台所」と呼ばれる繁栄を示すまでになりました。 

 経済的繁栄を背景に、大坂の人々は、文化の創造者・保護者となって豊かな文化の花を咲かせました。また、大坂は、全国から集まる各地の特産品等を材料にした加工業が盛んになり、加工交易都市でもありました。

 明治時代に入ると、新政府による政治・社会の変革により、またもや大阪は致命的な打撃を受けました。しかしながら、それまでの物の加工や流通・経済が盛んであった伝統を受け継ぎ、民間の資本と知恵で、我が国の産業革命の中心地となり、明治時代の末ごろには全国一の工業生産を誇るまでになりました。

 今回の展示では、このように江戸時代に大変盛んであった商業に加え、明治時代以降、工業も大いに盛んになっていった大阪市の産業のようすを時代の流れにそってみてみることにしました。

※  陪都―国都以外に設けた都や副都のことです。難波宮は、683年からは複都制により飛鳥と難波が都となり、726年から784年の間は平城京の副都でした。

1.江戸時代(1603年から1867年まで)の※大坂三郷と周辺の産業 

 17世紀、日本全国の農業と工業は生産が急成長し、その結果、一つの経済圏としての全国市場が形成されました。

 大坂は、堀の開削が17世紀後半に行われて水運が便利になり、また、そのころ諸国を結ぶ航路も開かれたため、水陸交通の要所でした。

 交易上最良の条件を備えた大坂には、全国から物資が集まりました。そして荷受問屋や卸市場などができました。また、商品経済の時代となり物資を金にかえるため、各藩の蔵屋敷もたくさんつくられました。

 経済活動が活発になるにつれて両替商が発達し、大坂は全国金融市場の中枢でもありました。                          

 また、大坂や上方の市場と商人がその資本力と輸送力を駆使し、関東地域だけでは賄いきれない巨大都市江戸の消費を支えたことも大坂繁栄の要因となりました。このような状況のもと、17世紀後半以後、大坂は高度経済成長をなしとげ、18世紀には、全国の商業・金融の中心「天下の台所」としての地位を確立しました。この天下の台所のたくさんの住人を養うため、大坂三郷近郊の農業や漁業も大変盛んでした。また、多くの物資が集まるため、それを加工することをはじめとした物づくりも盛んになり、18世紀初めには加工交易都市とも呼ばれました。当時、大坂の銅吹所でつくられた精銅は、長崎からオランダを通じて世界中に輸出されていました。そのため、大坂は、科学技術都市でもありました。

 江戸時代の終わりごろには、江戸周辺の産業と流通体制の発達に伴い、大坂の取扱商品は減少しだしました。さらに、大坂の問屋の特権と独占による経済的支配に対して生産者が抗議する国訴が盛んに起きました。また、大名が大坂などの問屋を通さず藩相互で直接取引をしたり、地方の荷主が自由売買をしたりすることもありました。

 

※ 大坂三郷―江戸時代の大坂の町(北組・南組・天満組の三つに分けられており、これらを合わせて三郷と呼ぶ)のことで、発足当初の大阪市の市域とほぼ同じ地域です。


酒を運搬した樽廻船の模型


銅の精錬―南蛮吹の図


大坂への入荷品と出荷品(18世紀初めころ)

2.明治時代(1868年から1912年まで)の大阪市と周辺の産業 

 明治時代初めの大阪では、蔵屋敷の廃止、株仲間の解散により両替商や豪商が休業や倒産に追い込まれました。その上、やっと開港した大阪港は、川口港のため水深が浅く大型の外国船が入港しにくいため、期待された貿易も振るわず、大阪は明治10年ごろまで衰退していました。

 当時、明治政府は、東京を中心にして近代産業を育成しようとしていました。そのような中、大阪では、明治10年の西南戦争による特需や、官営工場の設立や払い下げなどがきっかけとなり、資本・労働力・用地・工業用水などが得やすく、水陸交通の要であり、大きな消費地も周辺にあるといった利点を生かして民間資本による近代工場が増えだしました。              

 その中には、造幣局で働きながら技術(化学薬品の製造等)を身につけた人たちが始めた中小工場も多くありました。また、造幣局の硫酸・ソーダ事業が民間に移行されたためつくられた各種化学工業(セルロイド・マッチ・ガラス・セメントなどの製造業)の工場もありました。

 そして、明治15年につくられた大規模な紡績会社の成功を契機として、大規模な工場や重工業の工場も次々とつくられ(明治17年から27年頃まで)、明治20年代の大阪は新商工業都市として発展していきました。

 明治23年には 綿糸を中国に輸出できるまでになりました。さらに、日清戦争(明治27・28年)と、日露戦争(明治37・38年)を機に海外市場が広がった結果、大阪の産業(繊維や雑貨工業が多い)は大いに盛んになり、明治37年には、全国一の工業生産額を記録しました。また、日本一の繊維の町となり、大正時代に入ったころには、「東洋のマンチェスター」と呼ばれていました。

 日露戦争後は、重工業が一層の発展をしました(割合としては、依然として軽工業が多い)。そのすさまじいまでの工業の発展により、明治時代の末ごろには、大阪市周辺の農地は、わずか4年から5年で半減するぐらいのスピードで宅地や工場に変わっていきました。また、工業人口が商業人口を追い越しました。

 このように、我が国における産業革命は、民間企業を母体として、大阪を中心に展開されました。これは、大阪にとっては大変意義深いことです。

 しかし、繊維関連を主に軽工業を中心として急速に近代工業化が進んだ大阪の工業は、他の工業都市に比べて軽工業(繊維関連や雑貨等)の比重が高いという特質が後々までもつづくことになりました。

川口波止場


造幣局の錦絵


大阪紡績会社第2工場(現在の大正区三軒家)

3.大正時代(1912年から1926年)・昭和時代終戦(1926年から1945年)までの大阪市と周辺の産業

 大正3年に始まった第1次世界大戦の影響で、大阪の各種工業は飛躍的に発展しました。中でも、金属・機械・化学・薬品・食品工業などが著しく発達しました。そして、工場が府下や他府県にまで拡散していきました。

 その実態は、アジア諸国への輸出量が急増したため、雑貨や機械金属類を製造する中小工場が増えました。また、交戦国であるヨーロッパの先進国に頼っていたプラント工業や部品工業が大阪にも芽生え、さらには、交戦国へ輸出する軍需品の生産が増えました。

 その結果、大阪の工業は重化学工業が以前より盛んになり、工業都市としての進化をとげました。しかし、軽工業(繊維・雑貨工業・中小の機械金属工業)もこの時期大いに発展したため、軽工業の構成比が依然として高いという大阪の特質は継続されることになりました。

 大正7年、明治時代末ごろからの人口急増や戦争景気により物価が暴騰して異常なインフレが続き、大阪でも米騒動が起きました。そこで、大阪市は新しい社会事業を始めたり、物価を安定させるために公設市場の設置を進めました。

 大正14年には念願の市域拡張が認められ、日本一の大都市大阪市が誕生しました。しかし、2年後の昭和2年に金融恐慌、4年には昭和恐慌(世界大恐慌)が起こり、内需不振・輸出不振のため、生産額の大きい大阪市の産業は一番大きな打撃を受けることになりました。

 昭和6年の満州事変の後、軍需関連の需要が増えたことと、日本の対外関係不安から円為替が暴落したことにより輸出産業(繊維・雑貨工業等)が活況となり、そこから景気が回復しました。

 昭和10年ごろの大阪市は、軽工業から重工業への編成替えを完了し、金属・機械工業が急伸しました。ところが、軍需産業が増大するにつれ、明治時代の官営工場のうち軍事・機械・化学関連の工場が東京周辺に集中していた流れを受け継いだ東京の工業生産額が急伸し、明治37年以来つづいていた大阪市の生産額日本一はこの時期に終わりました。

 戦時体制(日中戦争が昭和12年に始まる)に入ると、平和産業の多い大阪市の産業(繊維・雑貨工業等)は、原料統制や輸出入の制限により致命的な影響を受けました。商業・流通業も統制経済のために衰退しました。

 昭和20年には、戦災(空襲)により、大阪市の産業は壊滅状態となりました。


大正5年開設の大阪市立工業研究所


大阪港の雑貨品輸出(昭和12年)


大阪市の工業生産額の推移(大正元年~昭和15年)

4.昭和時代戦後[昭和20(1945)年]から第1次オイルショック[昭和48(1973)年]前までの大阪市の産業

 終戦直後の物資窮乏の時期、ヤミ市が横行するなど消費財の需要が多かったことや、民間貿易が再開(昭和22年)したことにより、大阪市の雑貨工業は活況を呈しました。

 そして、昭和25年から始まった朝鮮戦争特需により、焼け野原から一応の復興をなしとげました。ところが、特需景気後の不況の中で大阪市の工業の体質改善(関連産業が多く経済効果の大きい重電機・自動車・精密機械工業等を増やす)の必要性が叫ばれだしました。

 昭和30年ごろからは、輸出が大いに伸び「神武景気」(昭和29年から32年まで)・「岩戸景気」(昭和33年から36年まで)と呼ばれた日本始まって以来の好景気が続き、高度経済成長の時代に入りました。

 そして、大阪市の工業生産も昭和31年ごろには戦前の水準を超えました。しかし、当時すでに、日本の経済政策や産業構造が変化してきており、大阪市は主力製品が繊維関係で、貿易相手国はアジア諸国が多いため、戦後も発展はしたものの商業・金融・工業のすべての面で伸び悩み、関西の地盤沈下が進んで、東京への一極集中が進行しました。

 この時期、大阪市は中小企業振興のために、協業・集団化や技術革新・製品の高級化を進めました。また、輸出振興に向けては、海外市場調査機関や海外事務所の設置に努めるとともに、国際見本市を定期的に開催しました。

 経済成長が進む中、昭和39年には、海外との経済摩擦や景気過熱による金融引き締めなどにより、不況に陥りました。

 その後はベトナム戦争(昭和35年から50年まで)特需やアメリカの好景気、万博関連投資などにより大阪市も活況にわきました。全国的には、「いざなぎ景気」(昭和40年から45年まで)と呼ばれ、個人消費も輸出も大いに伸びました。

 このように、経済が急成長し、大量生産・大量消費の世の中となり,都市化も進みましたが、反面、各種の公害が大きな問題になり、また、農業や水産業が衰退してしまいました。

 好景気で始まった昭和40年代の大阪市経済の課題は、資本の自由化に向けた海外との激しい競争・資本力の格差に対する対応の仕方でした。そこで、各企業は独自技術や独創的な製品の開発、設備の近代化、安定した株主の確保等により国際競争力の向上を図りました。また、軽工業から重工業への転換を進めて、産業構造の近代化にも努めました。ところが、大工場は土地や水を求めて周辺や地方へ分散していき、市内は都市型工業(印刷、出版、衣服、医薬製造業等)が中心になっていきました。それでも、卸売業や流通業は依然として盛んであるということで、大阪市は流通と管理の都市へと変貌していきました。

 


高度経済成時代の大阪市の製造品出荷額等(億円)


国際見本市会場(港区)


昭和43年中小企業指導センターが開設

5.第1次オイルショック[昭和48(1973)年]からバブル経済崩壊[平成3(1991)年]前までの大阪市の産業

 昭和48年、第4次中東戦争が勃発し、石油の輸入に支障が出ることから、物不足になるという風評が流れて物不足パニックが起き、そして、不況になりました(第1次オイルショック)。この結果、これまでのような大量生産・大量消費を前提とした高度経済成長軌道は、修正を迫られることになりました。

 オイルショック後の不況期、大阪市の経済は、その回復力の鈍さが注目されました。その原因としては、西日本に対する政府の公共投資比重の低下、アジアとの貿易の停滞、大阪市の産業構造の体質が依然として古いことなどが考えられます。それに対し、国際化・情報化・サービス化・産業構造の高度化等により、経済の東京一極集中はさらに進みました。

 昭和50年代後半ごろからは、新興国の工業生産力の伸長と国内市場の成熟により、工場の海外移転や国内での減量経営を進めるとともに、研究開発型・技術知識集約型産業や情報化時代に合わせたサービス産業を中心にすえる時代に変わってきました。そこで、大阪市でも知識集約型産業・生活文化産業を伸ばしその輸出を増やして復権を図るとともに、新たな需要に応じるサービス産業の育成に努めました。

 オイルショックによる不況も昭和53年には、大阪市の貿易収支が円高にもかかわらず黒字になるなど持ち直しかけました。しかし、この年12月に第2次オイルショックが起こり、物価が上昇し国際収支も悪化して、昭和58年の初めまで長い不況が続くことになりました。                        

 この後、不況期間中に行われた工業の国際競争力強化策の実践や国債発行による公共事業の伸長、それと、国際市場での景気の回復などにより輸出主導型の景気回復が実現し、貿易黒字が空前の水準となりました。しかし、急激な輸出の伸びは貿易摩擦を引き起こし、欧米先進国へも工場を移転しなければならない事態にいたりました。

 結果として、昭和60年には、円高が進み始め(63年には、1ドル=120円になる)、内需主導型の経済への転換を迫られることになりました。

 ところが、円高のプラス効果(輸入品の価格低下等)と、国による総合経済対策により景気はV字回復し、内需中心の息の長い経済拡大期(バブル景気―昭和61年から平成3年まで)となりました。消費がブームになり、高額な輸入品が売れ、海外旅行者も増えて貿易の黒字縮小に貢献しました。しかし、不動産や株への投資が過熱してしまい、バブル経済現象の形になりました。

 この時期、大阪市の卸売業や金融・証券業は、通信販売やメーカー直販の増加、東京への一極集中の進行という状況にもかかわらず、まだ、全国での中心的機能を維持していました。そして、大阪証券取引所の先物市場(現物市場は衰退)は、平成3年には世界最大の規模を誇りました。


簿冊「海外見本市参加関係書類」(表紙)


ファッションの産業化


産業・経済のソフト化・サービス化とは

6.バブル経済崩壊[平成3(1991)年]から現在までの大阪市の産業

 平成3年4月、バブル経済が崩壊して平成不況に突入し、平成5年には、1ドルが100円を切る円高となりました。そのため、工場を海外(アジア、主に中国)に移す企業が急増しました。

 そして、貿易は、国際水平分業(原料を輸入するだけでなく、日本の技術を相手国へ移転し、そこで生産された製品も輸入することで貿易の不均衡をできるだけ是正する)のスタイルに変わっていきました。

 大阪市では平成6年に、待望の24時間使用可能な関西国際空港が開港し、対アジア貿易が大阪港も含め好調に推移し、平成7年ごろは輸出入共に増加していました。しかし、全国での大阪市の産業のシェアは低下の一途で、産業の中枢機能の東京一極集中はますます進み、工場の地方立地はなおも進行しました。

 この時期、日本の産業の全体像は、<工業>―軽薄短小化(高度化・高付加価値化)・多品種少量生産化・情報化・ソフト化が進行。<商業>―バブル経済破たん後の低価格志向もありメ-カー直販やネット通販が増加し、卸売業は低落傾向。小売業は、従来の小売店舗が減少し、コンビニ・ファミレス・大型量販店が増加。<サービス業>―ネットやコンテンツ関連等の対事業所サービスが著しく成長。そして、トラック輸送業や倉庫業も伸長といった状況でした。

 この間、大阪市の産業は、サービス業が著しく伸長したものの、製造業のシェアは低下をつづけ、サービス経済化が進展したため、かつての工業都市のイメージからは遠ざかっています。

 大阪市の製造業の特徴は、付加価値額の大きい(1)基礎素材型(化学・金属) (2)加工組立型(機械など) (3)生活関連型(印刷・衣服など)の各種基盤産業 が高密度に集積していることです。また、次世代成長産業(先端産業)といわれるナノテクノロジー・バイオテクノロジー・ロボット産業の企業や研究機関なども集積しています。そのため、今後の発展が期待されています。

 大阪市は、その産業構成に占める卸・小売業のシェアの高さが依然日本一であるので、今も商都であるといえます。そして、近年は、不動産・金融・保険業やサービス・運輸・通信業が伸びており、また、観光・集客産業(国内外の観光客やコンベンション等の誘致・開催)が重要な産業になってきています。

 現在、平成20年のリーマン・ショックの影響や、ヨーロッパの国々の債務不安等により景気の低迷がつづいています。大阪市では、今後の経済の発展に向けて、地域の高い技術力を持つ企業や研究機関などの強みを活かした「健康・医療」「環境・エネルギー」分野などの成長産業の振興、製品・サービスの新たな価値の提案につながる「クリエイティブ・デザイン」分野の振興、集客・観光分野の振興などに重点的に取り組んでいるところです。


2期島完成後の関西国際空港の予想図


チーム・オオサカのロボット


平成13年大阪産業創造館開設

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