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デジタルギャラリー2013

2017年2月10日

ページ番号:290345

大大阪の建設―公文書にみる大正・昭和戦前―

はじめに

 明治時代以降で大阪市が最も元気だった時代、それは大規模な市域拡張が認められ、面積・人口ともに日本一となった「大大阪」と呼ばれた時代です。

 近世に商業都市として栄えた大阪は、明治維新以降一時的に衰退していました。しかし、すぐに民間資本によって紡績業をはじめとする大規模な工場が作られ、近代的な工業都市として復活を遂げます。紡績業を中心とした工業発展の様子から「東洋のマンチェスター」とも呼ばれました。大正15年(1926)には、工業生産額全国第1位を誇るまでになりました。

  この産業の発達に伴い、大正から昭和戦前期にかけて、大阪市は大規模な都市計画事業に着手し、メインストリートである御堂筋、その下を走る地下鉄の建設を行いました。また、都市計画事業だけでなく、公設市場や市民館の建設など全国に先駆けた社会事業を実施し、街並みに加えて市民の生活も近代化していきました。

 今回の展示では、明治以降の産業の近代化を受けてさらなる発展をみせ、都市開発によって「大大阪」へと変貌を遂げ始めた大正時代と、名実ともに「大大阪」となり日本の諸都市をリードした昭和戦前期までの大阪市政を取り上げました。

 このような都市化・近代化に伴う「大大阪」建設の道程の中で、街並みや市民の暮らしぶりがどのように変化していったのか、当時の都市整備事業や社会事業に焦点をあてて紐といていきます。現在につながる都市・大阪の原点を感じ取っていただければ幸いです。

1.明治期の大阪市の発展

 大阪市が近代商工都市として発達しはじめたのは日清戦争(明治27から28年まで)前後のことです。この発達と同時に人口も増え、上下水道をはじめとする都市施設の整備が急ピッチで進んでいきました。

 大阪市は順調な発展を遂げていきますが、市域が狭いことが問題となってきます。例えば、「商都大阪の命運は築港にあり」と言われ築港が急がれた大阪港は、当時の大阪市域外に位置していました。加えて人口もさらに増加の一途をたどりました。このような問題に対応するため明治30年(1897)4月1日、大阪市は東成郡、西成郡の28か町村(一部は部分編入)を市域に含める、いわゆる第一次市域拡張を行いました。これにより市の面積は3.5倍となります。大阪港が市域に編入されたことを契機に、築港事業を開始し、同36年には大阪港の大桟橋の供用が開始されました。

 さらに同じ年には、天王寺を会場として第5回内国勧業博覧会が開催されました。3月1日から5か月にわたり開催された博覧会は、初めて海外からの参加が許可されたほか、メリーゴーラウンドやイルミネーションなど娯楽施設が人気を呼びました。会場の跡地は、天王寺公園が造成されるなどの利用が進み、近代化へとつながっていきました。

  また、内国勧業博覧会は大阪の交通発展にも大きく貢献しました。大阪駅から天王寺へと続く堺筋が拡幅され、会期中には間に合いませんでしたが、明治36年9月には花園橋西詰‐築港桟橋間で市電が開通しました。大阪市は、博覧会を足がかりにこのような都市整備事業を開始しましたが、大規模な整備までには至らず局地的な事業のみにとどまっていました。

 商工都市としての発達により、第一次市域拡張時に約75万人であった大阪市の人口は、明治44年には約127万人と急激に増加しました。人口増加は、経済的発展だけではなく、さまざまな都市問題をもたらしました。例えば、市内だけではなく隣接町村での農地の宅地化や、無秩序な開発です。加えてそこに集まった人々の生活改善も課題となりました。これを受けて市内に加え、将来の市勢拡大を見据えた周辺町村と一体化した広域的・近代的な都市開発、また社会事業を計画する必要に迫られるようになっていったのです。

拡幅された堺筋


(出典『写真で見る大阪市100年』昭和63年 大阪都市協会)

築港大桟橋と市電


(出典『写真で見る大阪市100年』昭和63年 大阪都市協会)

2.大正期における都市整備事業と社会事業

(1)都市整備事業の展開

・第一次都市計画事業・更正第一次都市計画事業

 大正期に入ると、明治期に行われた都市整備や市域拡張による人口の集中、さらに自然発生的かつ無秩序な市街化によって、基本的な都市施設が不足するとともに、災害に対して無防備な木造密集住宅が現れるなどの都市政策における課題が浮き彫りになりました。

 これらの問題に対応したのが、大正2年(1913)市長に就任した池上四郎と、池上市政で助役を務め、のちに市長となる關一です。彼らはともに都市計画事業や上下水道事業などの都市基盤整備に力を尽くしました。

 大正6年、關を会長とする都市改良計画調査会が道路、鉄道、河川、運河、築港の新設拡張と郊外地の開発に関する調査を開始しました。同8年には大阪市が総合的な「市区改正設計」を計画します。同9年の都市計画法施行を受け、翌年には、「市区改正計画」を骨子とした「第一次都市計画事業」を策定、同10年3月に内閣の認可を受け、事業を開始しました。ここで行われたのは、道路を中心とする既設街路の改造で、御堂筋、梅田九条線等の街路の新設、拡張、既設街路のうち一部の舗装や拡幅整理です。

 事業実施中の大正12年9月1日、関東大震災が起こり、東京・神奈川を中心に多数の死傷者、建物の被害が出ました。この災害に加え、大阪で起こった明治42年(1909)の北の大火・同45年の南の大火を教訓として、すぐに計画変更の意見書が市会に提出されました。そこでは「従前の計画では災害に際し損害を免れ得ないため、非常の災害時に生命財産の危険がないように計画をさだめ実行されることを望む」と述べられています。これを受けて大阪市は「更正第一次大阪都市計画事業」を策定、大正13年(1924)11月に認可を受けました。ここには、準幹線を中心とした住宅地の中で災害時の避難路となる街路の新設・拡張、橋梁の耐震耐火構造への改築などが盛り込まれていました。

 この都市計画事業によって、大阪市は次第に近代都市としての装いを整え始めました。なかでも大正15年に着工した御堂筋は近代大阪の基軸ともいうべき重大事業でした。

大阪市区改正計画図


(出典『第一次大阪都市計画事業誌』昭和19年 大阪市都市整備局)

堂ビル北側の立ち退き始まる


(出典『写真で見る大阪市100年』昭和63年 大阪都市協会)

*関連項目―池上市長と關市長

 大阪市の都市計画政策を推し進めたのは、第6代市長池上四郎と第7代市長關一です。

 池上は大正2年(1913)10月に市長に就任し、大正初期の不況による財政悪化の立て直しや、水道拡張、大阪電燈会社の買収等都市基盤の整備という点で大きな業績を残しました。

 關は、大正3年、池上に請われ東京高等商業学校(現・一橋大学)教授から高級助役となりました。大正12年には市長に就任し、御堂筋拡幅、地下鉄の建設を実行しました。昭和10年(1935)1月に腸チフスで死去するまでの20年余りを大阪市の近代化に努めました。

 この二人の市長によって、大正期の都市整備事業が行われ、百年の大計をめざす大大阪の建設が進められました。

6代市長 池上四郎(就任:大正2年10月15日、退任:大正12年11月9日)


(出典『写真で見る大阪市100年』昭和63年 大阪都市協会)

7代市長 關  一(就任:大正12年11月30日、昭和10年1月26日死去)


(出典『写真で見る大阪市100年』昭和63年 大阪都市協会)

*関連項目―道路整理事業・路幅整理事業(軒切り)

 旧市街の道路は、軒を通りに張り出し家屋内に道路を取り込んでいたため大変狭くなっていました。明治以降、交通の発達により人力車や馬車が走るようになると、その狭い道幅の回復・拡張が緊急の課題となっていました。大正6年には市が費用の半分を負担し、強制的に軒先を切取り道路の幅を回復させる道路整理事業が始まりました。

 大正10年(1921)に第一次都市計画事業が始まると、路幅整理事業へと受け継がれ、昭和16年(1941)にはほぼすべての道幅が回復されました。

 もともとこの道路整理事業と路幅整理事業を「軒切り」と呼んでいましたが、そのほか、市電道路、都市計画道路敷設による家屋の後退についても「軒切り」と呼ばれています。

軒切り直後の平野町通伊藤喜商店


(出典『千年都市大阪 OSAKA-MILLENNIUM CITYまちづくり物語』平成11年 都市工学情報センター)

・土地区画整理事業

 都市計画事業を街路という「線」の整備と位置付けるならば、「面」の整備ともいうべき土地区画整理事業も大正12年(1923)から開始されました。市街化によって混乱状態にあった都島区や城東区、東成区などの周辺部では、土地区画整理事業によって、中産階級・勤労者向けの長屋が直線の道路に整然と立ち並ぶ住宅地へと姿を変えていきました。

 この事業の特徴は、計画区域ごとに土地権利者間で組合を結成し、それぞれ所有地の一部を提供することで、道路や公園・下水道などの公共施設を生み出した点にあります。土地区画整理事業は組合が施行、大阪市が助成するという形で行われましたが、それは關市長の「都市秩序を守るためには官民一体の町づくりが緊急課題」であるという思想に基づいたものでした。

*関連項目―都島土地区画整理組合

 都島土地区画整理組合は、大正14年(1925)の第二次市域拡張直後に、将来の市街化が期待される土地の先行整備推進のためのモデルケースとして設置されました。土地区画整理事業の対象となったのは、現在の地下鉄都島駅東側一帯75haの地域です。

 区画整理事業によって上下水道に加えガス・電気が普及し、区画整理小公園や新たに2つの小学校が新設される等環境が整えられていきました。

 ただしこの地域は、戦時中の空襲によってほとんどの建物が焼失し当時の雰囲気は失われてしまっています。

大阪市都島土地区画整理前後比較図


(出典『まちづくり100年の記録 大阪市の区画整理』平成13年 大阪市建設局)

(2)社会事業の進展

・米騒動

 明治期以来の工業都市化は、都市部に多くの労働者を呼び込みました。工場が都市部にも作られることで雇用が増大し、労働者らの生活の底上げがなされましたが、雇用や賃金の上昇と同じく、物価の上昇によって生活難の状態が続いていました。明治末期から大正にかけて彼らへの対策は、「救貧」ではなく合理的な都市生活を可能にする社会政策であることが求められていたのです。

 第一次世界大戦(大正3年から7年まで)による好景気のなか、物価は高騰を続けました。大正7年(1918)7月富山県から全国各地に米騒動が広がりましたが、大阪では、同年8月11日、天王寺で開かれた米価調節市民大会をきっかけに、数千人の群衆が今宮などの米屋に押し掛ける騒ぎになりました。

 大阪市は、米騒動以前の大正7年4月からインフレ対策として境川・福島・天王寺・谷町と市内4か所に臨時市場を開設し、日用品の適正価格での販売を行っていましたが、米についても日時を定め安売りを行うようになりました。また、同年9月以降には、幸町・天満・九条の3か所に簡易食堂が設置され、飲食物の供給も行われていました。

 米騒動で大きな成果をあげることとなった臨時市場は、そのまま公設市場として常設されるようになります。大阪市は、食品をはじめ日常の必需品を安価で供給することについて「社会生活上で重要な施設でなければならない」という理念を持ち、食料・生活諸物資の安定供給と物価抑制を目的としていました。

 さらに大正12年には、中央卸売市場法制定によって、中央卸売市場設置の準備が始まり、小売だけでなく卸売も含めた流通市場全体を再編、近代化しようとする構想が立てられていました。このような諸物品の販売方法の変化は、物価統制という社会事業的側面を持つだけでなく、御用聞きや掛売りが一般的であった取引形態から、主婦自ら市場に現金を持ち買い物へ行くという生活様式の変化にもつながりました。

天満公設市場


(出典『大阪市社会事業概要』大正12年 大阪市社会部)

九条簡易食堂


(出典『写真で見る大阪市100年』昭和63年 大阪都市協会)

・新しい社会事業

 米騒動をきっかけに実施された社会事業や施設は、時勢や市民の要求に合致し、大きな効果を上げました。社会事業の必要性を感じた市内の篤志家らによる107万円余りの寄付を元に、大阪市は社会事業を企画していきました。大正12年(1923)時点の社会事業は、児童保護・労働保護(失業対策・職業紹介等)・住居施設・生活必需品供給、保健施設・救護施設・文化的施設並びに調査という7つの分野にわたっていました。

 また、大阪市は「社会経営の眼目は、市民の福祉を増進し、その共存共栄をまっとうしようとするところにある」という思想から、情義を重んじる思想の向上を目指し精神的文化的社会事業・社会施設が必要となると考えました。これに基づき作られたのが市民館(大正15年、北市民館に改称)です。市民館では、音楽会や健康相談等が行われました。

 このように大正期にはじまった社会事業は、生活困窮者の救済だけでなく、市民生活のレベルアップ・生活環境の改善など、社会事業を通して都市の近代化をめざす全国的にみても先進的な取組みだったのです。

北市民館


(出典『写真で見る大阪市100年』昭和63年 大阪都市協会)

*関連項目―市営住宅

 大正期から昭和初期にかけて労働人口の都市部流入や、建築資材の高騰により住宅難が深刻化しました。このような状況に対応するため、大正8年(1919)から同15年の間に6か所1285戸もの市営住宅が建造されました。

 希望者のうち中産階級以下で、市内在住もしくは接続町村から市内へ通勤する者から審査の上、入居者が選ばれました。

 市営住宅の周辺には託児所や理髪所、共同浴場が設けられ住居の安定だけではなく生活改善も図られました。

鶴町第二期住宅


(出典『大阪市社会事業概要』大正12年 大阪市社会部)

*関連項目―職業紹介所

 職業紹介所は、労働の需要供給の調節を図るために大正8年(1919)から設けられた施設です。労働の保護に努め、雇用条件の改善を目的としています。大正12年までに12か所設置され、うち3か所では日雇い労働を紹介する労働紹介も行っていました。

中央職業紹介所


(出典『写真で見る大阪市100年』昭和63年 大阪都市協会)

*関連項目―乳児院・託児所

 働く母親の代わりに子どもを預かり保育する施設として設置されました。

 生後100日から満2歳までの子どもを預かるのが乳児院、満2歳から学齢未満の子どもを預かるのが託児所でした。

鶴町第二託児所


(出典『写真で見る大阪市100年』昭和63年 大阪都市協会)

*関連項目―刀根山療養所と市民病院

 明治期の保健医療事業は、ペスト等伝染病対策が主となっていましたが、大正期に入ると社会政策を基調とする積極政策に転換しました。

 大阪市は大正6年(1917)に全国初の公営結核療養所である刀根山療養所を開設しました。昭和4年(1929)には市立刀根山病院に改称し、同22年には国立療養所刀根山病院(平成16年に独立行政法人化)となり現在に至ります。

 また、大正10年には市民病院を計画する等、保健医療事業も積極的に実施していました。市民病院は全科病院で、年収800円未満の市民には無料で診療していました。

市民病院


(出典『写真で見る大阪市100年』昭和63年 大阪都市協会)

3. 大大阪の誕生

(1)第二次市域拡張

 第一次世界大戦後、大戦景気の反動による恐慌や関東大震災による震災恐慌の影響を受けつつも、大阪の経済は拡張を続けていました。市内の人口密度は飽和状態となり、地代・家賃の安価な周辺部へと人口が拡大していきました。

 明治30年(1897)に実施された第一次市域拡張の直後、拡張から取り残された北部接続町村の編入を要望する動きが表面化しました。また、第一次世界大戦を契機に急速に市街地化した大阪市東部・南部でも、教育施設や上下水道の整備という課題を抱えていたために、市域編入を要望する声が高まりました。

 市内住民と工業化が進む周辺住民との間に生活環境格差を生じさせないため、そして将来の市街地化に備えて秩序ある都市計画の基盤を確保するために、大阪市は早くから大規模な市域拡張計画を申請していました。關一市長は「都市計画は田圃のうちからやらねば手遅れになる」として、市域編入の必要性を説いていました。 

 活発な市域編入運動が展開される中、財政事情に恵まれた村や農村的色彩の濃い村の編入に反対する声、さらに内務省の農村地帯編入に対する消極的な姿勢のために、市域拡張はなかなか進展しませんでした。しかし、大正12年(1923)に発生した関東大震災を受けて、都市災害防止の観点から市域拡張を急務とする認識が高まったのです。同年12月、ようやく大阪市域拡張の建議が大阪市会・府会で認められました。そしてその翌年に内務省の東成・西成両郡の全域編入許可を受けて、同14年、第二次市域拡張が実現しました。

 第二次市域拡張は44か町村を編入する大規模なものであっただけでなく、編入面積約123k㎡のうち、7000町歩(約69.3k㎡・甲子園球場1750個分)の農地を含むという特異なものでした。この市域拡張によって、大阪市の面積は約3倍に拡大し、当時の東京市の面積・人口を抜いて日本一の規模となりました。

大正末期の大阪市の様子(都島方面を臨む)


(出典『土木局80年のあゆみ』昭和53年 大阪都市協会)

市域の変遷


(出典『大阪市政70年のあゆみ』昭和34年 大阪市)

(2)大大阪記念博覧会・大大阪デー

 大正14年(1925)4月1日、多くの困難を乗り越えて第二次市域拡張が実現しました。人々は、拡張された新しい大阪市を「大大阪」、この日を「大大阪デー」と呼びました。

 当日は朝から、大阪ホテル跡地を会場として花火が打ち上げられ、街には造花を飾った市電や乗合自動車、タクシーが走るなど祝賀ムードに包まれました。

 中之島公会堂(現・大阪市中央公会堂)では大阪市主催の記念式典が開催され、關市長が「近代科学の要求と市民の共存共栄に基調する各種施設を整備することで、文化の進展と経済の振興に対して最高の機能を発揮するよう努める」と、大大阪建設の抱負を述べました。

 各学区内では小学校児童による旗行列が行われ、さらに空には大阪朝日新聞社や大阪毎日新聞社などの飛行機が舞い、「大大阪」の成立を祝いました。公設市場や百貨店でも記念割引大売り出しが行われました。夜には市電14両がイルミネーションで装飾されて街に繰り出し、大阪の街を彩りました。

 また、3月15日から、大阪毎日新聞社の主催、大阪市の後援、各百貨店の協賛で大大阪記念博覧会が開催されていました。天王寺公園と大阪城を会場としたこの大大阪記念博覧会は第5回内国勧業博覧会(会期153日間、総入場者数435万余人)以来の大規模な博覧会であり、14万5000円の余剰金を出す大成功を収めました。4月30日までの会期47日間で両会場合わせて189万8468人を動員する盛況ぶりであったといいます。

大大阪記念博覧会 会場鳥瞰図


(出典『大大阪記念博覧会誌』大正14年 大阪毎日新聞社)

4.昭和初期の都市整備事業

(1)都市整備の進展

・総合大阪都市計画・第二次都市計画事業

 日清戦争後に紡績業を中心として商工業を飛躍させ、東洋一の商工都市となった大阪市ですが、震災手形の影響を受けて発生した昭和2年(1927)の金融恐慌、そして緊縮財政による不況と世界大恐慌のあおりを受けて発生した同4年の昭和恐慌の打撃は大きなものでした。

 そのような状況のなか、都市基盤の整備がさらに進められました。昭和3年5月に総合大阪都市計画、同7年10月に第二次都市計画事業が内閣に認可されました。総合大阪都市計画は、既成市街地および土地区画整理が拡大施行されつつあった外周郊外地を含み、道路だけでなく運河・公園の新設拡張、墓地の新設、下水道(整備区域の拡大と下水処理)、土地区画整理をその事業内容とし、都市建設として総合性を有していました。なかでも特徴的なのが公園計画です。早くから市街地化していた大阪は緑が乏しかったため、市民の健康保全という關市長の目的のもと大規模な公園計画が立てられました。昭和3年7月には、御大礼事業として大阪城天守閣を復興し、軍用地であった大阪城周辺の一部を公園とする案が市会で可決されました。

 第一次都市計画事業として施行された各種事業が進められるのもこの時期です。御堂筋など都市計画道路の新設拡張工事の進行に併せて施行することを条件に、都市計画事業の一部として認可された地下鉄の起工式が行われたのは昭和5年のことでした。大正15年(1926)に着工し、昭和12年に全通した御堂筋、同8年に梅田-心斎橋間、同10年に心斎橋-難波間、同13年に難波-天王寺間が開通した地下鉄(御堂筋線)は、ともに大阪市の南北を貫く道路交通の大動脈となりました。

 御堂筋建設のための用地取得は困難を伴うものであり、天守閣再興に対しては資金調達の困難さから反対する声もありました。しかし、これら事業の推進には多大な市民の協力がありました。天守閣は市民の寄付によって再興され、大阪城公園として公開されました。また、下水道事業や御堂筋、地下鉄といった都市施設の建設には、施設が整備されることによって利益を得る者から費用を徴収する受益者負担制度が採用されました。  交通の円滑化を図るだけでなく、大阪の顔を形成するという目的のもと建設が進められた御堂筋、市民の募金を基金として建設された大阪城天守閣は近代都市大阪のシンボルとなりました。

市庁舎前の地下鉄工事


(出典『写真で見る大阪市100年』昭和63年 大阪都市協会)

地下鉄車両の搬入(天王寺までの延長開通)


(出典『写真で見る大阪市100年』昭和63年 大阪都市協会)

完成近い天守閣


(出典『写真で見る大阪市100年』昭和63年 大阪都市協会)

*関連項目―金融恐慌

 昭和2年(1927)3月に発生した経済恐慌のことで、昭和金融恐慌と呼ばれることもあります。

 関東大震災の処理のための震災手形が、不況のため決裁が延ばされて膨大な不良債権となって中小銀行の経営を悪化させ、金融不安が生じていました。そこに、大蔵大臣の失言から、金融不安が表面化して、中小銀行を中心に取り付け騒ぎが発生してしまいました。このときは、政府が大量の現金を市場に供給することで収束しました。

 

*関連項目―昭和恐慌

 昭和4年、ニューヨーク株式市場の大暴落に端を発した世界恐慌の影響が、日本経済の体質改善の切り札として実施された金解禁政策のため不況にあえいでいた日本にも及び、同5年から6年にかけて日本経済を危機的な状況に陥れました。当時、経済規模の大きかった大阪は、一番の打撃をこうむることになりました。

・大阪港築港

 明治30年(1897)に起工した築港事業は、築港公債によって財源を確保しつつ、臨港鉄道などの追加工事を含め、昭和4年(1929)3月に全事業が完了、4月に竣工しました。続いて、第二次修築工事第一期が同年7月、第二期工事が同15年7月に着工します。これら工事の進捗にしたがって、大正期後半から大阪港の入港量は急速に増加しました。それとともに貿易額も増加し、横浜・神戸をしのぐ勢いで発展しました。

大阪港のシンボル築港大桟橋


(出典『写真で見る大阪市100年』昭和63年 大阪都市協会)

昭和4年3月に開業した臨港鉄道


(出典『大阪築港100年 海からのまちづくり』上巻 平成9年 大阪市港湾局)

(2)すがたを見せる大阪

 御堂筋をはじめとした都市基盤が整えられるのに伴い、都市景観も変貌を遂げました。大正6年(1917)から施行された道路整理事業、いわゆる「軒切り」や道路拡幅を伴った市電の敷設は、狭い道路を有した伝統的景観に大きな影響を与えました。

 昭和6年(1931)11月7日、市民の協力のもと再建された大阪城天守閣の竣工式が行われました。当日は花電車が出されるなど市内あげてのお祭り騒ぎでした。天守閣館内では復興記念「豊公特別展覧会」が開催されました。 

 その2年後の同8年5月、地下鉄梅田-心斎橋間が開通した際には路面電車30周年をかねた高速電気軌道開通式が催されました。市内には開通を祝う花電車が走り、地下鉄の各停留所には初乗りをめざす乗客が殺到しました。

 大正時代から、堺筋や心斎橋筋などの目抜き通りには、呉服店から発展した百貨店などの鉄筋コンクリート製洋式高層建築物が立ち並び始めました。百貨店は新しい流行と娯楽の場でもあり、洋式近代建築物は消費者にとって魅力ある店舗でした。昭和には、御堂筋に面して大丸やそごう百貨店の新館も建ちました。これら百貨店ビルの壮麗な姿が新しい都市景観を造り出していました。

 また、住宅街にも変化が訪れます。大正末期から昭和初期に伸展した耕地整理や土地区画整理は新市域に住宅地を形成しました。この頃開発された市街地には、門構えや前栽のある邸宅風の和風長屋や西洋館風に意匠が凝らされた洋風長屋、和洋折衷長屋など新しいタイプの長屋が登場しました。

 交通網が整備されたことによる人々の行動範囲の拡大、若年労働者の飛躍的流入、近代建築の出現によって活気あるすがたになっていったのです。このような大阪を海外にPRするために市営観光に力がそそがれ、観光艇や新型の観光バスなどが造られました。

完成した御堂筋


(出典『写真で見る大阪市100年』昭和63年 大阪都市協会)

大丸とそごう百貨店


(出典『写真で見る大阪市100年』昭和63年 大阪都市協会)

マンサード屋根の洋風長屋(住之江区粉浜)


(出典『千年都市大阪 OSAKA-MILLENNIUM CITYまちづくり物語』平成11年 都市工学情報センター)

おわりに

 これまで見てきたように、大阪市は都市の発展と膨張に伴う課題を抱えつつ、市民の理解や協力を得ながら都市の近代化を進めました。

 昭和6年(1931)に満州事変が発生すると、大阪も戦時色を帯びてきます。軍事インフレ政策による工業生産額の増加と円安による輸出の回復を背景とし、大阪の産業は軽工業中心から重化学工業中心へと変化し、生産額も回復しました。 

 しかし、昭和7年、市域拡張によって誕生した東京市に大阪市の人口が抜かれました。さらに、同12年に勃発した日中戦争により、軍需産業が増大し、重工業の官営工場が多く作られていた東京とその周辺の工業生産額が急伸したため、大阪市の工業生産額日本一の時代は終わりを迎えました。戦時体制下に入ると、繊維・雑貨等の平和産業が中心であった大阪の産業は、原料統制等によって衰退していきます。太平洋戦争末期になると、大阪も度重なる空襲を受けて壊滅状態となりました。大阪の街は焦土と化し、市民の生活と都市機能が根底から破壊されてしまいました。

 終戦を迎えると、戦時中に中断していた道路・橋の建設整備が再開されるとともに、「復旧」ではなく「復興」を目指した都市整備事業が開始されます。戦後の困難を乗り越え、現在のすがたへと繋がってゆくのです。

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