ページの先頭です

デジタルギャラリー2014

2017年2月10日

ページ番号:342287

大阪の災害―復興と防災のあゆみ―

 大阪は、河川等を使用した水運の要所であり、大阪湾を中心に対外貿易や商工業が発達し、「水の都」と称されてきました。しかし、その一方で大阪湾の最奥部に位置することから高潮や津波の被害を受けやすく、また、淀川をはじめとする河川の氾濫に悩まされてきました。例えば延宝2(1674)年には洪水により旧淀川(※1、旧大和川(※2の堤防が決壊し天満橋、京橋等が流失しました。明治18(1885)年にも旧淀川で大洪水が発生し、新淀川の開削へと繋がりました。

 また、水害のみならず、太平洋側沖合の南海トラフ沿いで発生する巨大地震にも襲われていました。江戸時代、安政南海大地震(185412月)では大きな揺れと津波の被害に見舞われたことが記録されています。

 このような災害に大阪市や大阪の人々はどのように立ち向かい克服していったのでしょうか。今回の展示では、大阪市の公文書や刊行物から本市が被害を受けた明治時代以降の災害を振り返ります。

 取り上げたのは、大阪市に大きな被害をもたらし、その後の施策に影響を与えた北の大火・南の大火、大阪を襲った三大台風といわれる室戸台風・ジェーン台風・第2室戸台風、平成7(1995)年の阪神・淡路大震災です。加えて他都市で発生した大災害に対する市の対応として東日本大震災での救援活動にも焦点をあてました。

 これらの災害についてその被害状況だけでなく、その後どのような都市計画や防災対策が採られ復興がなされていったかに注目し、振り返ります。


1 旧淀川

 淀川の下流域は大川、中津川、神崎川に分かれて流れていました。明治20年代から淀川改修計画が持ち上がり、明治30年から同43年にかけて長柄より下流の中津川沿いに新淀川が開削されました。これに伴い、神崎川と大川が本川から分流され、毛馬には洗堰が設置され市内に流入する水量の調整が出来るようになりました。


2 旧大和川

 大和川は、江戸時代半ばまで現在の柏原市の北で、いくつかの支流に分かれ北進し、最終的に、淀川(現・大川)と合流して大阪湾に注いでいました。大和川は何度も水害をもたらし、1707(元禄17)年付替え工事が始まりました。これによって現在の石川合流地点から、瓜破台地、上町台地を西進する新河道が作られたのです。

1.明治の2大大火―北の大火と南の大火

  「大火」と言えば江戸を思いおこしますが、江戸時代や明治時代の大阪でも何度も大火に見舞われてきました。大阪の市街地は家屋が密集し、道路の幅も狭いため、火災が発生すると大火となりやすかったためです。

  明治以降の大阪で、最大の大火となったのが北の大火です。明治42(1909)年7月31日午前4時ごろ、北区空心町(現天満橋1丁目付近)にあったメリヤス製造販売業者の家から出火しました。出火原因は、消し忘れた中庭のランプが破裂し、周囲に積まれていたメリヤスの原料品に引火したことです。火災発生時、連日の炎天で家屋が乾燥していたことに加えて強い東風が吹いていたために、炎はまたたく間に燃え広がりました。炎は勢いを増しながら、丸一日かけて曽根崎・堂島一帯を焼き尽くし、福島紡績会社の外柵に至ってようやく鎮火しました。被災区域は51か町・約1.2平方キロメートル、焼失戸数は1万1365戸に及びました。

  8月1日の深夜、大阪市は中之島公会堂に臨時救護団を組織し、仏照寺をはじめとする5つの救護団出張所を開設して被災者の収容と救援物資の配布に努めました。被災直後の混乱がある程度落ち着きを見せると、明治41年3月に新築されたペスト患者の隔離施設である大阪府立木津川隔離所を借用して、生業への復帰が困難な被災者の半永久的な救護を目指しました。収容者の健康管理の徹底や、職業あっせんなど収容者の自立を支援するほか、所内に木津川学園校舎として尋常小学校と幼稚園を開設するなどしました。

  北の大火は建築規則の制度化を大きく促進させ、明治42年8月に「大阪府建築取締規則」が公布されました。また、曽根崎・堂島一帯が壊滅するという甚大な被害を受けて、同年11月の市会で消防設備の充実を図ることが決議されたほか、消防制度も見直されました。同43年、政府は「大阪市消防規程」を制定しました。これにより、従来警察組織の中に位置づけられていた消防業務が独立し、東西南北の4消防署と2消防分署が設置されました。


北の大火・若松町控訴院付近のようす
(『明治42年大阪市大火救護誌』明治43年度 行政局市史編纂室(現 大阪市史編纂所)発行)

 こうして消防制度が躍進するも、大阪市はまたも大火に見舞われます。それが明治45年1月16日に起きた南の大火です。午前1時ごろ、南区難波新地4番町の湯屋・百草湯の煙筒から噴出した火の粉が、強風によって貸座敷・遊楽館の3階の屋根に引火し、約10時間に渡る火災となりました。被災区域は約0.3平方キロメートル、焼失戸数4779戸(全焼4750戸)、死者4名となりました。この大火では、北の大火と比較して、より近代的な消防設備の導入が進んでいましたが、伝達系統の未熟さ、周辺の建物の高さ、道路幅の狭さが大火となった要因と考えられました。

 2つの大火は、消防設備の不十分さと消火活動を妨げる狭い道路、消火用水の不足といった火災警備上の課題を認識させました。焼け跡の整理は市区改正の好機とされ、当時進められていた市電敷設計画を変更し、道路が拡幅されました。

関連項目 大阪市における消防制度の変遷

 大阪に消防組織ができたのは江戸幕府3代将軍・徳川家光の時代でした。以降、消防制度は大火の発生とともに発達しました。

 江戸時代、出火の際に消防活動に従事していたのは、「火消人足」「水の手人足」と呼ばれる人たちでした。消防業務に従事する人たちは別に本業を持っていることが多く、消火作業の経験不足や人足の兼業が大火に発展する要因のひとつでした。

 明治6(1873)年、大阪府は大阪市中の消防事務を民間へ委託することとし、同13年に大阪府警察課が消防指揮をとるようになりました。同18年には消火方法が見直され、近代的消防器具が導入されました。そして、同22年の市制施行にともない、市中の消防事務が大阪府警察本部から大阪市に移管され、市の負担による大阪市消防組が組織されました。出火時には従来どおり警察が消防指揮を執ることとされました。

 北の大火を受けて、大阪市は消防制度を見直す必要に迫られました。明治43年に制定された大阪市消防規程により、大阪府警察本部に消防課が新設され、消防業務専任の警視や消防士が置かれました。これにより、常時体制・府費負担の官設消防が誕生しました。

 昭和初期に戦時色を帯びた消防制度は、終戦後の警察制度改革のなかで転機を迎えます。昭和22年に公布された消防組織法によって、消防行政は警察から完全に分離され、地方分権主義の原則にしたがって消防の責任がすべて市町村にゆだねられました。翌23年の消防組織法の施行にともなって大阪市消防本部が設置され、これをもって完全な自治体消防としての大阪市消防局の発足となりました。

表 大阪市における消防制度の変遷
 (明治時代から自治体消防の発足まで)

注 下記の参考文献をもとに作成しました。
『新修大阪市史』第8巻・第9巻
 (平成3年・7年 大阪市史編纂所発行)
『大阪市消防三十年のあゆみ―大阪市消防発足30周年記念―』
 (昭和53年 大阪市消防局発行)
『大阪市消防の歴史』
 (昭和42年 大阪市消防局発行)

2.室戸台風と小学校の近代化

 大阪市は、西は大阪湾、南は大和川を隔てて堺、北は神崎川を隔てて尼崎と接続し、古来水陸交通の要衝でした。さらに、豊富な水量をもつ淀川から分岐した大小の河川・運河が市内を縦横に走るため、水運の便がよい「水の都」として発展しました。しかし、上町台地を境にして、市内東部は地盤が高く、西部にいくにつれて次第に低くなり海に連なるという地形は、台風時に高潮の被害を受けやすいという特徴を持っています。

 昭和9(19349月21日、高知県室戸岬で911.9ヘクトパスカルを記録した超大型台風・室戸台風が近畿地方を直撃しました。大阪では、午前8時前後の約20分間、最大瞬間風速60メートル/秒以上を記録する暴風雨が猛威をふるいました。台風にともなって発生した高潮によって、西大阪を中心とする市域面積の約27%、市内戸数の約25%が浸水しました。とくに学校・港湾施設が壊滅的な被害を受け、港湾機能は一時麻痺、市内の小学校の70%以上が倒壊または大破するという凄惨な状況でした。通学・通勤時間と重なったこと、多くの木造校舎が倒壊したことにより、児童・教職員に多数の犠牲者が出ました。当時、大阪市では新市域における人口激増にともなう学齢児童の増加のために、教室不足に悩まされていました。さらなる児童の増加に備えて、昭和8年に小学校新増築計画が立てられ、事業が進められていたところにこの台風の惨禍にあいました。



道路上の団平船
(『大阪市風水害誌』昭和10年度 大阪市発行)


表 室戸台風による大阪市内校園舎被害状況(昭和9年9月)
(『新修大阪市史』第7巻 平成5年度 大阪市史編纂所発行)

 大阪市は災害当日に臨時救護本部を設置し、翌22日には臨時市参事会で風水害応急処理費50万円を決定するなど、迅速な対応に努めました。他都市や公私団体などの救援もあり、被災者の救援・復旧作業は急速に進展しました。また、抜本的な復興策として、大阪港復興費2991万円、校園復興費4491万円をはじめとする総額1億504万円の復興予定計画を決定しました。

 校園復興においては、鉄筋コンクリート建築と昭和3年以降に築造された耐震木造建築の小学校校舎だけが被害を免れたことを受けて、被災小学校の校舎を全部鉄筋コンクリート造にする復旧計画を立てました。初等教育施設として万全を期すこと、災害発生時の避難所とするために、少なくとも一校に一棟は鉄筋コンクリート造の校舎を建設することとしました。しかし、復興予定計画の実現に必要な国庫補助金が得られなかったため、復旧校舎の8割を鉄筋コンクリート造、2割を耐震木造にする方式がとられることになりました。

 当初の計画どおりに国庫補助費が認められなかったために、後退を余儀なくされた大阪復興計画でしたが、室戸台風は、南港防波堤の築造など昭和7年に決定された大阪港修築計画の実現を促進し、学校校舎の鉄筋化など教育施設の近代化を進めるきっかけとなりました。また、深刻な高潮被害の原因となった西大阪の地盤沈下も強く認識されるきっかけとなりました。

関連項目 西大阪の地盤沈下と高潮対策

 大阪は高潮現象(※1)が生じやすい地理的環境を有していますが、深刻な地盤沈下もまた室戸台風やジェーン台風時の高潮被害が大きくなった原因のひとつでした。

 西大阪(※2)一帯は、新田開発と埋立工事によって陸地化されたために平坦な地形をしており、淀川から分岐した大川(旧淀川)や神崎川、そして正蓮寺川や安治川といった支流が縦横に走っています。明治に入ると大規模な工場が次々と造られ、工業の街として発展しました。しかし、それにともなって過剰な地下水のくみ上げを原因とする地盤沈下が進行しました。

 昭和9(1934)年、大阪で地盤沈下の調査が公に開始されました。市内98か所に水準基標を設置し、毎年1回測量が行われました。昭和20年前後は戦災のために地下水のくみ上げが休止され、沈下量は収まりましたが、同25年に勃発した朝鮮戦争を契機に工業生産がさかんになり、それにともなって地下水のくみ上げも増えてふたたび地盤沈下が激化するようになりました。



地盤沈下と工業出荷額
(『大阪市地盤沈下総合対策協議会 30周年記念誌』平成4年度 環境保健局大阪市地盤沈下総合対策協議会発行)

 室戸台風での経験によって高潮対策が重要視され、昭和9年、「大阪港復興計画」が立てられました。同計画は、外郭防波堤および港湾主要地における波除堤の構築、在港船の停泊・避難措置の利便性を図るため、内港域拡張・安全な泊地の加増、小船のたまり場や避難場所の整備拡充、木材の整理貯木設備の完備の4つを主眼とし、これに基づいて、南港防波堤の築造および既設防波堤の補強をはじめとする9つの事業が行われました。排水施設についても、ポンプ場の腰壁を高くする・周囲に防壁をめぐらすなどの浸水防止策を施したほか、電動機を高所に移動あるいはディーゼル発電機を備えつけるなどの方策がとられました。これらは、災害の実態と原因を調査・研究して、被害の防止軽減を第一義として計画されたものでした。しかし、技術的・経済的理由から、高潮浸入防止策は十分に取られず、昭和9年に開始された工事は同21年に一部未完のまま打ち切られました。

 昭和11年からは港区埠頭地区や大正区鶴町、福町などの沿岸において防潮堤や9か所のポンプ場を設置する「防潮応急工事」、昭和14年からは同計画の充実をはかる「防潮応急施設補強並びに新設工事」なども施行されました。



1 高潮現象

 強風が沖から海岸に向かって吹くことで海水が海岸に吹き寄せられて海岸付近の海面が上昇します。大阪湾のようなV字形の湾では、奥にいくほど狭くなる地形が海面上昇を助長し、湾の奥ではさらに海面が高くなります。この「吹き寄せ効果」と、低気圧によって海面が上昇する「吸い上げ効果」によって高潮が引き起こされます。


2  西大阪

 上町台地西部の低地帯。西淀川、東淀川、淀川、此花、福島、北、西、港、大正、浪速、西成、住之江、住吉の13区で構成されます。


地盤沈下により海没した西淀川区の工場
(『大阪市地盤沈下総合対策協議会 30周年記念誌』平成4年度 環境保健局大阪市地盤沈下総合対策協議会発行)

3.ジェーン台風

 昭和20(1945)年9月、終戦直後の大阪を枕崎台風が襲いました。西大阪一帯の高潮被害を受けて、大阪市は大阪府と共同して応急的な復旧工事にとりかかり、昭和21年度までに西大阪一帯に高さ3メートルから3.5メートルの防潮堤が構築されました。しかし、終戦直後の物資窮乏のなかで構築されたため、戦災で焼け落ちたがれきまじりの土砂を使用した盛土堤にすぎないものでした。そのため、同22年度からは継続事業としてその補強工事および排水施設の設置がされることになりました。

 昭和25年9月3日、戦災からの復興に向かっていた大阪を巨大台風・ジェーンが襲いました。大阪到達時の中心気圧970.3ヘクトパスカル、最大瞬間風速44.7メートル/秒を記録したジェーン台風は、発生当時、同9年に襲来した室戸台風に次ぐ規模で、大阪市に戦後最大の被害をもたらしました。ジェーン台風に起因する高潮によって大阪湾の最高潮位はO.P.3.85メートル(※)に達しました。これにより海水が各河川に逆流し、河川水位が上昇して先に築かれた防潮堤を越えて西大阪一帯に猛烈な勢いで流れ込みました。防潮堤は高潮とそれにともなう漂流物で破壊され、全市面積の約30%が浸水、最大水深は2.5メートルにもなる深刻な高潮被害をもたらしました。


浸水地区での排水作業
(『ジェーン台風風水害概況』昭和25年度 民政局調査課発行)


いち早く活動を開始した市バス
(『ジェーン台風』昭和25年度 市長室公聴課発行)

 西大阪地域の恒久的な高潮対策の確立が急務となり、ただちに国・大阪府の協力を得て、昭和25年度から「総合高潮対策事業」が計画実施されました。「総合高潮対策事業」は、「西大阪高潮対策事業」を基幹とし、港湾地帯の整備や工業用水道の建設、国鉄構内の防潮堤施設の設置などを含む広範な事業でした。「西大阪高潮対策事業」は、高潮や地盤沈下に関する理論的な調査研究をふまえて計画されました。その内容は、西大阪地域の河川・運河・海岸沿い124キロメートルO.P.3.0から6.5メートルの防潮堤を築造、港湾一帯を全面的に盛土、防潮効果向上のために利用頻度の少ない河川は廃川とし、利用頻度の高い河川に防潮水門を新設、全面的な排水施設の整備拡充(ポンプ場20か所新設、橋梁35か所かさ上げ)で、総事業費は221億円に及びました。

 昭和34年3月、およそ9年の歳月を経て「西大阪高潮対策事業」が一応の完成をみました。さらに、同年9月に発生した戦後最大の台風・伊勢湾台風を参考に、同35年から10か年計画の「大阪港特別高潮対策事業計画」を策定し、実施しました。

 

O.P.  大阪湾最低潮位(Osaka Peil

 Peilは「水位」「基準面」を表すオランダ語であり、O.P.は大阪湾の最低潮位からの高さを示す単位です。明治7(1874)年に観測された大阪港の最低潮位をO.P.±0. 0メートルと定義しています。港湾・河川管理の際の基準となり、特に洪水や高潮を想定した防波堤・防潮堤整備などの防災計画を推進する上での基準として用いられます。

4.第2室戸台風と防潮対策

 昭和361961)年9月8日、マーシャル諸島近海で発生した台風は、16日午前9時過ぎに室戸岬に到達しました。日本上陸後の経路が昭和9年の室戸台風とよく似ていたことから「第2室戸台風」と名付けられたこの台風は、大阪到達時の中心気圧937.3ヘクトパスカルと室戸台風を上回り、戦後最大といわれる伊勢湾台風に匹敵するレベルでした。また最大瞬間風速50.6メートル/秒を記録する暴風により樹木や家屋の倒壊が報告され、城東消防署では勤務実施中の望楼が倒壊しています。

 台風は午後1時過ぎに兵庫県尼崎市・西宮市間に再上陸しました。この頃から各地で高潮によって防潮堤が決壊し、消防局職員が逃げ遅れた人々を船艇で救助しました。同日午後7時には大正区・此花区等11区に災害救助法が適用され、動員された1万5000名の市職員によって本格的な援護活動が始まり、排水作業や食糧輸送等が行われました。


西淀川区西島川の防潮堤決壊箇所
(『第2室戸台風の大要』昭和36年度 市長室公聴課)

 16日夜から乾パンや毛布の配給が始まり、避難所では被害の少なかった区の婦人会等による炊き出しが行われました。市全体で1065か所の避難所が設けられ、44万名が収容されました。大阪市全体の被害は、死者7名、負傷者589名、床上浸水6787戸、床下浸水46448戸、家屋倒壊3347戸、浸水地域は西淀川・港・此花・福島等10区にわたり、その面積は31平方キロメートルにも及びました。

 昭和25年のジェーン台風以降、市は防潮堤建設とともに地盤沈下対策を進めていましたが、地下水の揚水量は減らず地盤沈下は進みました。そのため、室戸・ジェーン両台風では被害のなかった中之島地区までもが浸水被害を受けることとなりました。地盤沈下が高潮の被害を増大させる要因となっていたのです。

 第2室戸台風の被害を受けて、市は新たな地盤沈下対策と防潮堤整備を開始しました。地盤沈下対策では、市会において地下水くみ上げの全面禁止に関する条例案の立案を要請する「市会議長宣言」が出されたことにより、「大阪地盤沈下総合対策協議会」が結成されました。同協議会が政府や国会に立法化を働きかけたことにより、昭和37年には「工業用水法の一部を改正する法律」と「建築物用地下水接取の規制に関する法律」が成立しました。これによって地下水の揚水が厳しく規制され、同40年には西大阪における地盤沈下は終息しました。このように第2室戸台風は単なる自然災害としてだけではなく都市災害としての高潮の問題という側面を持っていました。

 第2室戸台風の後、地盤沈下により低くなった防潮堤を回復させるため、昭和36年度から同39年度にかけ「緊急3ヵ年計画」が策定されました。道頓堀川等の防潮堤の改修や橋梁のかさ上げ、さらには堀江等の排水施設改修が行われ、防潮対策が完了しました。

 続く昭和40年からは、大阪市、大阪府、そして国によって伊勢湾台風級の超大型台風による高潮に十分対処できる恒久的施設の建設をめざす「大阪高潮対策恒久的計画」が策定されました。この計画によって淀川以北では従来通りの防潮堤を、以南では防潮水門が設けられました。防潮堤のほか、排水機場等の完成により高潮に対する第一線の防潮ラインが完成しました。以降これを超える高潮は発生していません。


地盤沈下によるビルの抜け上がり
(『大阪市地盤沈下総合対策協議会 30周年記念誌』平成4年度 環境保健局大阪市地盤沈下総合対策協議会発行)

関連項目 現在の浸水対策 なにわ放水路・淀の大放水路

 昭和40年代までに行われた高潮対策事業により、高潮による浸水被害はほとんど発生しなくなりました。一方で、近年では都市型水害への対応が課題となっています。都市型水害とは、雨水が浸透しにくいアスファルトで覆われた地面に処理能力を超える雨水が降ることで起こる水害で、集中豪雨などによる河川の氾濫と側溝や下水道の氾濫が同時に発生すること、地下空間への浸水の可能性が指摘されています。大阪市は市街地の9割が低地にあり自然排水が困難であることから下水道整備によって浸水対策が採られてきました。都市型水害は市南東部で深刻であったため、その抜本的対策として、「なにわ大放水路」をはじめとする下水管の大幹線の建設に着手しました。また一時的に雨水を地下トンネルに貯留する調整池や、「此花下水処理ポンプ場」をはじめとする排水施設等の増設に努めています。現在、危険性が指摘されている地下空間への浸水についても、水防対策づくりや危険性の周知・啓発といった対策が進められています。

淀の大放水路
(『大阪の下水道』平成23年度 大阪市建設局)

5.阪神・淡路大震災

 平成7(1995)年1月17日午前5時46分に発生した阪神・淡路大震災は、淡路島北部を震源とする活断層の直下型地震で、阪神地域を中心に発生当時としては戦後最大規模の被害をもたらしました。大阪市内でも震度4を記録し、兵庫県に近い西淀川区、此花区、淀川区を中心に全市域で電気・水道・交通網といったライフラインの寸断や建物の倒壊の被害が起こりました。

 大阪市は火災の鎮火、建物に閉じ込められた人々や下敷きになった人々の救助、ライフラインの復旧活動を急ぎました。そして、西淀川区、淀川区等10区に延べ32か所の避難所を開設して被災者を収容し、2月11日までに延べ3571名が滞在しました。また、住宅の全壊・半壊等により元の住宅に住むことができない被災者へ市営住宅(400戸)や応急仮設住宅(兵庫県民向け270戸を含む711戸)の提供を行いました。

 大阪市は、市内の被害地域での活動と同時に、発生当日の午前1015分には、消防局から消防隊を被災地の神戸市へ、続いて救助隊・救急隊を西宮市、芦屋市に派遣しました。また、神戸市等被災都市と連携し、食糧や飲料水、応急医薬品等の救援物資の搬送、医療チームの派遣、応急給水や水道復旧のための職員の派遣等緊急を要する救援活動に尽力しました。被災地への職員派遣は、平成7年6月末まで実施され、延べ2万1685名の職員が災害応急・災害復旧活動に従事しました。

 また、弁天ふ頭に停泊した民間フェリーやインテックス大阪等に休息所を開設し、多くの被災者を受入れました。被災者への対応は市職員だけでなく市民ボランティアの手によって行われました。このボランティアへの注目や地域による救助活動が行われたことによって「共助」という言葉もクローズアップされました。

 阪神・淡路大震災は、これまで関西で大きな地震は起こらないと言われてきた中で発生しました。ライフラインの途絶により平常の市民活動や救援活動が困難になるという都市のもろさが露呈したことで、都市の安全性を考え直す契機となりました。大阪市では、市民が安心して生活し活動できる都市を作るため「大阪市地域防災計画策定委員会」を設置、震度7の直下型地震を想定し「地域防災計画」の抜本的な見直しを進め、平成9年度に「大阪市地域防災計画(震災対策編)」が策定されました。地域防災計画の中では、災害に強い「都市空間づくり」「都市施設づくり」「人と組織づくり」「防災体制づくり」「情報ネットワーク基盤づくり」という5つの指針を掲げました。そしてそれぞれ避難所の整備や、防災知識の普及、情報伝達・収集のための通信施設の整備等個別の計画が作られていきました。

救援活動のようす
(『阪神・淡路大震災大阪市消防活動記録』平成7年度 大阪市消防振興協会発行)

関連項目 ボランティア活動

 阪神大震災では、ボランティアによる支援活動に注目が集まりました。

 大阪市では昭和571987)年に設立された大阪市ボランティアセンターや各区ボランティアビューローに登録した人たち、また、それ以外の人々によって被災地や南港に設けられた一時避難所等で支援活動が行われました。

 被災地では、こうべ市民福祉交流センター(神戸市中央区)での支援物資の仕分け・搬出作業が行われ、ボランティアセンターからは延べ1361人が派遣されていました。

 また、大阪市内ではインテックス大阪に設けられた一時避難所やフェリーを用いた休息所での食事の準備などに従事していました。

 大阪市にボランティア登録した人は平成7年3月末の時点で18034名でしたが、そのうち震災ボランティアとして登録した人は3149名とその関心が高かったことがうかがえます。


救援物資の運搬・仕分け・搬出作業
(『コンボ ボランティア活動情報誌』No.3 平成6年 度ボランティア情報センター)

6.東日本大震災と他都市への救援活動

 平成232011)年3月11日午後2時46分に発生した東北地方太平洋沖地震は、関東大震災(マグニチュード7.9)や昭和8年3月の昭和三陸地震(マグニチュード8.1)を上回るマグニチュード9.0、最大震度7という規模で、日本観測史上最大、世界的にも1900年以降史上4番目の超巨大地震となりました。

 この地震の特徴の1つとしてあげられるのが、広範囲で発生した津波です。最大で10メートルを超える高さの津波が押し寄せた地域もあり、東北地方から関東地方の太平洋沿岸が壊滅的な被害を受けました。東京電力福島第一原子力発電所も津波の被害を受け、全電源を喪失し放射性物質を漏えいさせる原子力事故へと発展しました。今もなお、大勢の被災者が住みなれた土地を離れ避難生活を余儀なくされています。

 東日本大震災の強い揺れは、震源から遠く離れた大阪市内でも震度3を記録しました。高層ビルの上部では長周期地震動(※)により地上を超える揺れが長く続きました。また、全国的に大津波警報、津波警報、または津波注意報が発令され大阪湾の水門も閉鎖されました。11日午後9時2分には60センチメートルの津波を観測しています。地震の揺れによりエレベーターに閉じ込められるなどの事故が発生しましたが、小規模な被害にとどまりました。

 大阪市は、地震発生当日に、被災地支援を開始するため「大阪市災害対策本部」を立ち上げました。緊急消防援助隊をはじめとする応急実働部隊を派遣すると共に、災害用食糧・飲料等を被災地へと送りました。また、国や日本水道協会等全国組織の要請を受けて職員派遣も行いました。福島第一原子力発電所にも、緊急消防援助隊を派遣しています。地震当日から被災地に派遣された職員は、廃棄物処理支援や応急給水支援を中心に1906名(延べ2万4673名)、現在も区画整理事業等で20名が被災地で活動をしています(平成26年6月30日現在)。


消防局員による救援作業
(大阪市消防局提供)

 大阪市は現地での被災地支援に加え、市内において支援活動を行ってきました。市役所や区役所に募金箱を設置し受付けた義援金は、平成26年6月30日時点で総額1082076985円に上り、日本赤十字社を通じて被災者に届けられました。募金に加え支援物資の提供も受付け、毛布やタオル、ウェットティッシュ等が被災地へと送られました。

 また、大阪市は、津波で家屋を失った被災者や、原発事故で帰宅できない避難者に対し、インテックス大阪に一時避難所を設置したり(延べ17世帯28人)、市営住宅や職員公舎等で受入れを実施しました。


※長周期地震動

 地震で発生する周期が数秒以上のゆっくりとした揺れのこと。特に高層建築物が共振しやすく急速に振動が増幅し大きな被害を出す恐れがあります。

関連項目 関東大震災

 大阪市は、戦前から他都市で発生した災害に対し救援活動を行っていました。ここでは、戦前において史上最大級の被害を出した関東大震災を例に、大阪市がどのような救援活動を行ったのかを紹介します。

 関東大震災は、大正121923)年9月1日午前1158分に発生、神奈川県西部から房総半島南東沖を震源域とするマグニチュード7.9の地震でした。東京や神奈川を中心に埼玉・千葉から静岡県東部までの広い範囲に大きな被害をもたらしました。特に地震発生時刻が昼時と重なったため、市街地では炊事に使用されていたかまどや七輪から出火し火災が発生・延焼して広範囲に被害が広がりました。地震による死者は約105400人とされていますが、うち9万2000人が火災で命を落とし、全壊家屋294000棟のうちほとんどが焼失による被害でした。

 9月1日深夜に神奈川県警察部長から大阪市に東京・横浜方面の地震による被害が激甚であるため至急救援を求めるという無線電信が到着しました。これを受けて開催された市参事会・市会で東京横浜両市に対する慰問費20万円の支出が決定されました。また、食糧その他救護品が汽船で運搬され市職員10名と共に被災地へ入りました。4日には大規模な救援活動を行うため、市役所内に臨時救援部を設置しました。さらに9日には、東京に救護事務所を設置し援護活動に乗り出しました。大阪市の活動は、米やビスケット等の食糧や布団、衣類といった支援物資の輸送だけでなく、上水道復旧のために技師を派遣するなど復興に向けた人的支援をも含んでいました。

 東京では家屋の大半が焼失したことにより、多くの人が住むところを失いました。大多数は東京市内の寺社や学校に避難していましたが、地方へと避難する人々もあり、大阪市では9月5日以降彼らへの慰問、収容救護を開始しました。大阪への避難者のうち梅田駅に到着した人々を大阪府が、築港ふ頭に上陸した人々を市が担当し、それぞれ病院や収容所を紹介しました。また、市内で就職を希望する避難者のため、市立職業紹介所職員が職業の紹介や借間の紹介等生活再建の支援を行いました。

 義捐金や支援物資の募集に加え、青年団や婦人連合会といった団体は大阪へ避難してきた人々の収容所を訪問し、慰問救護や労務奉仕の活動を行いました。このように当時から市民の間にも救援という意識が存在していました。


築港ふ頭に上陸した被災者たち
(「救護事務ニ関スル新聞綴」(公文書館配架番号11054)大正12年度)

これからの防災

 大阪市は、風水害や地震、火災等多くの災害に見舞われてきましたが、そのたびに復興事業により立ち直ってきました。現在も南海トラフ巨大地震等今後起こりうる災害に備えるべく様々な取組みが進められています。

 特に、東日本大震災で大きな被害を出した津波に対する対策が講じられるようになっています。大阪市と津波とは無関係ではなく、たびたび津波の被害を受けてきました。例えば、昭和211946)年の昭和南海地震では、大阪港で80センチメートルの津波を観測しており、安政南海地震(185412月)の際には2時間足らずで波高2.5メートルから3メートルの津波が来襲し家屋への被害や死者が多くでました。

 東日本大震災後、大阪市はすぐに西淀川区等上町台地以西の10区で津波避難施設の確保を進めてきました。平成25年8月、大阪府が公表した南海トラフ地震による津波被害想定では、上記10区に加え住吉区等7区に浸水の恐れがあるとされました。現在、17区を対象に堅固な施設を避難施設として確保することを急いでいます。

 この他にも、昼間人口が集中する都心部での帰宅困難者に対する支援や、日本語を母語としない人々への災害情報の伝え方等が検討されています。また、これまでの行政中心の事業とは異なった視点での取組みが増えています。災害発生時、市や府・国等の行政はすぐに救援活動を始めることができません。その間に自分や家族を自身で守る「自助」、地域で助け合う「共助」の活用が必要となってきます。「自助」「共助」に加え、行政による救援である「公助」がうまく連携することで、災害が起こった際にその被害を減らそうとする「減災」につながることが期待されています。


「自助」「共助」「公助」による減災(『市民防災マニュアル【保存版】』をもとに作成)

 大阪市でも、平成27年までに民間住宅の90%の耐震化をめざす「大阪市耐震改修促進計画」のようなハード面の事業に加え、日常の自主防災の取組みや地域の防災力強化等「自助」「共助」の力を創出し、支援するような取組みもはじまっています。また、平成27年2月に「大阪市防災・減災条例」を施行し、「公助」中心であった市の防災計画を見直し、民間の「自助」「共助」を中心に据えた防災・減災対策が検討されています。

 阪神・淡路大震災から20年以上が経過し、また、記憶に新しい平成23年の東日本大震災の被害はいまだ癒えることなく被災地で懸命の復興活動が続けられています。大規模な災害が発生したとき、その被害を最小限にとどめる「減災」には、私たち一人一人が災害や防災に対する正しい知識を持ち、日頃から災害に備えることが重要だと言われています。災害や、防災への関心が高まっている今日、過去の災害を通してこれからの災害と対応を考えるきっかけとなれば幸いです。

関連項目 西区の取り組み

 東日本大震災を経て、現在、西区の防災対策の中心となっているのが津波対策です。

 大阪府が作成した南海トラフ地震の被害想定によると、西区には地震発生から110分で最大約4メートルの津波が到達、死者は2万245名とされ、津波被害の大きい地域となっています。これをうけて西区では津波避難施設・ビルの指定を進めたり、南海トラフ巨大地震による津波の浸水で想定される水深を、動物のイラストを用いて示した「浸水深サイン」を学校に設置する等、啓発活動が図られています。


浸水深サイン・どうぶつものさし
(大阪市西区役所 提供)

 また、台風やゲリラ豪雨により淀川の氾濫や内水氾濫(※)が起こると予想されており、この浸水対策も進められています。震害による被害想定についても、東南海・南海地震では震度5強から6弱、直下型の上町断層地震では震度6弱から7になるとされています。

 西区では、大規模災害発生時を想定して「災害時地域協力貢献事業所・店舗登録制度」を制定しています。この制度は、災害時に倒壊した建物の撤去を行うといった技術や資材の提供や、区内被災者への商品の提供を求めるボランティア制度です。このように近隣の住民同士が力を合わせ、地域の自助・共助による救護活動が行われるようになることを目指しています。

 また、区内各地域で防災訓練を開催し、避難や初期消火の訓練を継続的に実施しています。これらの活動を通じて地域の防災力を高め、災害に強いまちづくりにつながるような取組みを行っています。


※内水氾濫

 市街地に降った大雨が、下水道などの雨水処理能力を超えたり、川の増水により雨水の排出が困難になったりすることで、マンホールや側溝から水が溢れることをいいます。

SNSリンクは別ウィンドウで開きます

  • Facebookでシェア
  • twitterでツイートする

似たページを探す

探している情報が見つからない

このページの作成者・問合せ先

大阪市 総務局行政部公文書館

住所:〒550-0014 大阪市西区北堀江4丁目3番14号

電話:06-6534-1662

ファックス:06-6534-5482

メール送信フォーム