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まちのなまえと説明・紹介

[2011年4月1日]
まちのなまえと説明・紹介
地 名説 明 ・ 紹 介
 粉浜
(こはま)
今から800年ほど前に、駒井左衛門兼綱らが開発を計画し、浅い海をうめたててつくられた土地です。万葉古歌に見える「住吉の粉浜」の地が、当町域周辺を指すとの伝承により、命名されたとされます。
 安立
(あんりゅう)
そのころは美しい松原が続く砂浜でしたが、のちに、堺から和歌山へと続く紀州街道がひらかれ、その街道町として行き来する旅人でにぎわうようになりました。半井(なからい)安立という名医がいて、各地から患者が集まったことから、地名になったといわれます。江戸時代になってからは、紀州(和歌山)のとのさまの大名行列なども、ここを通りました。今の安立町の南のはしには、本陣(江戸時代、大名が泊まった所)がありました。
 加賀屋
(かがや)
加賀屋新田は、加賀屋甚兵衛が約200年前にひらきました。甚兵衛は商売で堺に行きましたが、そのときに紀州街道から西の方に見える浅州が新田開発によいことを知り、ここに新田を開こうと決意しました。甚兵衛は、のちに新田開発の功績を認められ、桜井という名字をもらったといいます。加賀屋新田会所跡(愉園)は当時の新田開発事務所で、今も建物や広い庭が残っており、そのころのようすをしのばせてくれます。加賀屋新田は、三代目甚兵衛、村上庄左衛門、駒井丹次郎、岩田平七などの手によって西へ西へと新田は広がっていきました。
 北島
(きたじま)
加賀屋甚兵衛が最初に手がけたのが、北島新田です。大和川をはさんだ堺の新田(南島)に対して北島といいました。北島新田開発は、その後、小山田久兵衛にひきつがれました。
 十三間川
(じゅうさんげんがわ)
新田づくりの始まるすこし前に掘られた運河で、1704年に河村瑞賢が木津川までつないだといわれ、川はばが十三間(約23メートル)あったそうです。(実際はもう少し狭かったようです)川の両岸には松や柳の並木がつづき、新田のかんがい用水として、また人々や荷物を運ぶ舟が行き来する大切な川でした。1970年(昭45年)に、阪神高速道路ができて、埋め立てられました。
 柴谷
(しばたに)
慶応元年(1865年)に当地を東成郡天王寺村大字天下茶屋の柴谷利兵衛という人がこの地を開墾したことに由来するそうです。
 浜口
(はまぐち)
町名は、江戸時代の村名に由来します。古来からの住吉の浜にあたり、住吉細江が海に注ぐ川口であることによります。
 平林
(ひらばやし)
この地が、かつて陸軍管轄地を払い下げており、当時の第八連隊長が平林盛人という人であったことに由来します。
 御崎
(みさき)
開発者櫻井甚兵衛が、彼の出身地である河内の喜志から勧進した神社を高崎神社と称したことに由来するといわれます。また、港湾地域に突き出た岬をなしていたことにもよります。
 緑木
(みどりぎ)
櫻井甚兵衛の「櫻」を<木>と<嬰>とに二分し、新田名として「嬰木(みどりぎ)」としました。それをさらに「緑木」と書きかえた佳命です。
 咲洲
(さきしま)
平成3年、大阪港の3つのまちの愛称を公募。寄せられた1673件の応募の中から、愛称検討委員会で検討した結果、決定されました。応募は、北は北海道から南は沖縄まで、また最年少2歳から最高齢87歳までという幅広さでした。咲洲とともに夢洲・舞洲とも、提案者は住之江区在住の方で、大阪港(難波津)にちなんだ古歌から考えたとのことです。
難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花    古今集:王仁博士
 コスモスクエア大阪南港の北部約160haにある国際交易機能を中心に集積させたまちで、咲洲の一部となっています。昭和63年、市民からの公募により、決定した愛称です。

(以上、「まちづくりレポート」より)  

 

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