旧跡の由来等大正区をより知っていただくため、パネルを設置しました

三軒家地域は、豊臣時代から開発者の中村(木津)勘助の名前をとって、勘助島(かんすけじま)と呼ばれていました。江戸時代には「御船蔵」と「木津川口遠見番所(きづかわぐちとおみばんしょ)」が設けられ、御船蔵は岩崎橋公園附近(現在地)、番所は大正橋公園附近(現在地の東方)にありました。
「御船蔵」は幕府の官船等を納める施設で、文書や地図にも記録されています。当地の御船蔵が蔵した官船名は明らかではありませんが、幕府の「川御座船 (かわござぶね)」には紀伊国丸(きのくにまる)や土佐丸(とさまる)等の名前が見られ、漆塗りの屋形を持ち、金銅の金具をつけて豪華な装飾を施され、櫓 (ろ)と棹(さお)で航行する川船でした。明治23年発行の大阪実測図にも跡地に「字船屋舗(あざふなやしき)」の文字が見えます。大正9年に開削された岩崎運河にも敷地の一部が取り込まれました。
なお、公園北側の環状線の擁壁面には、「昭和3年の道路開通記念碑」が埋め込まれています。


木津川は大坂の経済を支える大動脈として諸国の船の出入りで賑わいました。当地は、昔、「姫(ひめ)島」と呼ばれておりましたが、義民として名高い中村(木津)勘助が、慶長15年(1610年)に豊臣家のために軍船係船所の建設や船着場の整備等を行い、その功により「勘助島(かんすけじま)」と名付けられました。
江戸時代になって、幕府は宝永5年(1708年)に「木津川口遠見番所」を現在地に設けました。また、西方には幕府の官船等を収容する「御船蔵(おふなぐら)」(岩崎橋公園附近)がありました。
大阪の島と言われた当地と都心をつなぐルートとして、大正4年(1915年)市電開通とともに架けられた大正橋は、当時わが国最長のアーチ橋で、当区名の由来ともなっております。新橋が昭和49年に完成、下流側の高欄には、ベートーベンの交響曲第9番「歓喜の歌」の楽譜がデザインされています。
なお橋の東側にある「安政津波遭難者供養碑(あんせいつなみそうなんしゃくようひ)」は、安政元年(1854年)に木津川一帯を襲った安政の大津波の惨状を述べるとともに、最後に「後人の心得・・・願わくば心あらん人、年々文字読み安きよう墨を入れ給うべし」と記しており、大阪人の心情を表しています。


延宝3年(1675年)に出された、大坂の名所案内書である「芦分船(あしわけぶね)」によると家数の少なさから「三軒屋」と名付けられた当地も「次第に人家が満々(みちみち)、軒をならべ繁栄して、旅泊の船出入繁(しげ)く」としており、「芦分船」が発行される少し前の明暦3年(1657年)には当地での「川口遊里」が禁止されるまでになっています。
貞享元年(1684年)に天満組替地(てんまぐみかえち)となり、当地の一部は大坂三郷(さんごう)に入りました。幕府の「木津川口遠見番所(きづかわぐちとおみばんしょ)」や「御船蔵(おふなぐら)」が置かれ、摂津名所図会(せっつめいしょずえ)にも「千石・二千石の大船、水上に町小路を作りたる如く舳先(へさき)には船の名、家々の紋付けて其国をしらせ、風威の順不同・潮時の満干を考えて出帆あり着船あり」とし、薩摩(さつま)(現鹿児島県)・日向 (ひゅうが)(現宮崎県)船の着船の記録も見えます。北国航路の和船係留地であった木津川には和船が1000艘以上にもなったので、明治14年(1881 年)には三軒家川を開削、「船囲い場(ふながこいば)(178,000平方メートル)」を現在の三軒家東3丁目に開設しました。その名残りが今もあります。
(江戸時代には「三軒家」は「三軒屋」と表記されることが多かった。)

設置場所 … 泉尾2公園

江戸時代、尻無川は今の大阪ドームの場所を通り、西区江之子島まで達していましたが、大坂市中の遊興の地であり、文久3年(1863年)の「浪華の賑ひ(なにわのにぎわい)」によれば「此堤に黄櫨(はぜ)多く列なれり。紅葉の頃は錦色川水に映じせん望(遠く見渡すこと)又類ひなし。又春やよい弥生の潮干にははまぐり蛤、しじみ蜆を取らんとして来る人おびただ夥し」とあります。
また、摂津名所図会(せっつめいしょずえ)にも鯊(はぜ)つり釣を楽しむ人々の姿が活き活きと描かれている絵があります。
また、尻無川は、「唐人澪(とうじんみお)」とも呼ばれ、朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)の通る水路ともなっていました。これは、尻無川には幕府の御番所や御船蔵があったためです。
宝暦14年(1764年)の第11回の際には塩飽島(しあく)(香川県)の水主(かこ)3,500人の加勢を得て紀伊国丸(きのくにまる)等の幕府の船や諸侯の川御座船が黄金張りで華麗な屋形を設け尻無川の河口から上陸地点の北浜までの川筋を遡(さかのぼ)る姿を、人々は川の両岸に詰めかけ見学したようです。



元禄15年(1702年)に検地を受けた「泉尾新田」は和泉(いずみ)国踞尾(つくの)村の北村六右衛門(きたむらろくえもん)が元禄11年(1698 年)に開発に着手し、もとは三軒家浦新田と称していましたが検地を受ける時に、北村氏の出身の国名と村名から一字づつをとり「泉尾新田」と名付けました。二重の堤をめぐらし、沖堤は尻無川と三軒家を結ぶ、高さ9mの堤防で、現在の尻無川防潮水門から北村公園(一部、今でも堤跡の斜行道路が見られます)の北側を通り、千島バス停を越え、泉尾東小学校の南側を通っていました。中堤は泉尾工業高校の北側を通り泉尾東小学校まで、高さ5.4mの堤防で、沖堤と中堤の間は水田、中堤の中は畑でした。
面積は、明治初期にはその後の開発も併せて125町の大新田となりました。新田内は「井路(いじ)」と呼ばれる用水路が縦横にはりめぐらされ、かんがいや排水、舟運による運搬路となりました。
宅地は尻無川沿い(北泉尾)と三軒家村西側(南泉尾)の2ヶ所45戸だけで、縹渺(ひょうびょう)たる農地が広がっていました。作物は棉(わた)と西瓜(すいか)が良く獲れました。
また、新田の事務を行うために、南泉尾(現在の三軒家東5丁目附近)に瓦葺の立派な「会所(かいしょ)」を置きました。
明治時代になり北村六右衛門が破産処分を受け、負債償却を目的に設立された土地会社の所有になりました。




恩加島新田は、もと木津川河口の寄州(よりす)でしたが、東成(ひがしなり)郡千林(せんばやし)村(現旭区)岡島嘉平次(のおかじまかへいじ)が開発を始め、文政12年(1829年)に検地を受けました。名称は当時の代官岸本武太夫の命で「岡島」を「恩加島」と換用したものです。
恩加島新田のうち、北側が「北恩加島新田」、南側が「南恩加島新田」となりました。
嘉永4年(1851年)発行の「浪華の賑ひ(なにわのにぎわい)」によれば南恩加島を含む木津川口を挿絵入りで紹介しており、「此所は浪花の津の湊口にして諸国の海舶出入の要津にかかるゆえに、廻舟の便利よからしめんが為、去る天保3年(1832年)…870間余(1500m余)の石塘(いしづつみ)を築き…実に万代不朽にして浪花繁栄の基…又此堤は上に数株の松を植えつらねり、故に俗に木津川の千本松という。洋々たる滄海に築出せし松原の風景は彼の名に高き天の橋立、三保の松原なども外ならずと覚ゆ」と記されています。
嘉永7年(1854年)ロシアのプチャーチンが乗船するデイアナ号が大坂に来た時は、木津川沿岸には紀州兵など2600人や43隻の番船を浮かべるなど沿岸警備が行われました。また、将軍家茂が文久3年(1863年)に大坂の海岸部を巡視した時の木津川口の守備は土佐藩が行っておりました。


江戸初期の名所案内書である「芦分船(あしわけぶね)」によれば、「(難波島は)難波につづきたる所也。昔日難波の住人ひらきし所なれば此島の名とするにや」とあり、挿絵として船造りの風景を載せています。その後、元禄12年(1699年)に木津川の流路を一直線にするため河村瑞賢(かわむらずいけん)により島の中央部が開削され難波島は東西に分れ、東側を「月正島(がっしょうじま)」(浪速区)と呼び、西側を「難波島(なんばじま)」と言うようになりました。「摂津名所図会大成(せっつめいしょずえたいせい)」には「此地船大工職多く常に海舶を作事す」とあります。木津川交通の要衝として発展し、当地にはかが加賀(現石川県)国等の船宿が見られ、北前船(きたまえぶね)が着船し、二十石積の上荷船(うわにぶね)が86艘あったとされます。
難波島の西側の三軒家川は一部埋め立てられ、百済橋(くだらばし)は廃橋になりましたが、橋の一部は隣に残されています。大正中期には造船所15社が集中し、現在も工場群となっています。島の南端には「木津川防潮水門」と「三軒家水門」があり、防災拠点となっています。




恩加島新田は、東成(ひがしなり)郡千林(せんばやし)村(現旭区)の岡島嘉平次(おかじまかへいじ)が、木津川と尻無川の間の浅州の干拓に着目し、文政12年(1829年)に検地を受けました。名称は当時の代官岸本武太夫の命で、「岡島」を「恩加島」と換用したものです。
恩加島新田のうち北側が「北恩加島新田」、南側が「南恩加島新田」となりました。
北村公園の「北村」は、泉尾新田の開発者「北村六右衛門」に由来しています。
《大正区の思い出の橋》
大正区の区域は新田開発により成り立っているため、運河や用水路がいたるところに張り巡らされていましたが、区画整理事業などで、そのほとんどが消滅しました。区内中央部の運河周辺に特に多かったので、その昔の橋の名前だけでも残したいと右の図にその一部を紹介します。





明治16年7月に、東京・大阪の実業財界人渋沢栄一(しぶさわえいいち)や藤田伝三郎(ふじたでんざぶろう)らが出資した大阪紡績会社(通称:三軒家紡績)が、当地「三軒家(さんげんや)村」で操業を始めました。この大阪紡績会社は大正区の近代工業を飛躍的に発展させ、大阪の紡績業を日本一に押し上げる原動力となりました。
三軒家村は古くから船着場としてにぎわい、石炭や原料の綿花の搬入や製品の運搬に便利なため選ばれたといわれています。
操業間もなく夜業を始めましたが、明治19年に発電機を購入し、初めてあかあかと電灯がともり工場全体が不夜城のように浮かびあがり、各地から電灯の見学者が殺到しました。工場はまたたく間に拡大発展し、業界に傑出した地歩を確立しました。
明治20年代には、当地を中心に数多くの紡績、繊維会社ができ、日清戦争から日露戦争時代にかけて大阪は「東洋のマンチェスター」と呼ばれるにふさわしい発展をとげました。
その後、大正3年、昭和6年に他社と合併して世界最大の紡績会社に発展しましたが、戦争激化とともに軍需工場に転換させられ、昭和20年3月の大空襲で焼失しました。

平尾新田は大坂江戸堀《現西区》の平尾与左衛門が開発し、明和8年(1771年)に幕府の検知を受けました。その地域の中に「亥(い)」の年に開発されたことに因み、「亥開」と呼ばれる所《現在の南恩加島抽水所(みなみおかじまちゅうすいじょ)あたり》がありました。この地名から名称を取ったこの「平尾亥開公園」の東側で木津川に面したところ《現在の南恩加島1丁目》に、明治41年(1908年)にペスト患者隔離所(かくりじょ)が新設されましたが、その施設は、明治42年(1909年)の北区の天満(てんま)を火元とするいわゆる「北の大火」と呼ばれる火事で罹災した延べ約22,000人の市民を収容し、所内には小学校も開設されました。
その後、第一次世界大戦の結果、大正3年(1914年)11月、中国にいたドイツ兵などの捕虜(ほりょ)収容所が、日本各地(12箇所)に設置された時、大阪においてはこの施設が「大阪俘虜収容所」として使用され、軍人など760人を収容いたしました。捕虜は収容所にあっては、毎日の生活として朝夕2 回の点呼を受ける以外の労働は特になく、娯楽(ごらく)として、読書、絵画、演劇、音楽、あるいはテニスやフットボールおよび器械体操(きかいたいそう) などのスポーツを楽しみました。その様子を撮影した写真も現存しています。大正6年(1917年)2月、大阪俘虜収容所は閉鎖され、似島(にのしま)《広島市南区》へ移転しました。


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