ページの先頭です
メニューの終端です。

Aコース(1)

2022年5月6日

ページ番号:332

(1)大師道(たいしどう)周辺

 21日はお大師さんの日で、「大師めぐり」は江戸時代からのレクリエーションの一つであった。大師道は「難波21ケ所大師めぐり」といい、観音寺(1)-1を再興した月海上人が決めたといわれる。西区土佐堀の高野寺を起点に、区内では善福寺(1)-2(どんどろ大師)~四天王寺~一心寺から中央区三津寺の大福院へ至る。
  また地蔵信仰としての48地蔵めぐりや、観音信仰としての大阪33箇所霊場めぐりなど、大半が区内にある。
 真田幸村父子の冥福を祈って建立された心眼寺(1)-3(まん直し地蔵がある。)、木村蒹葭堂の墓がある大応寺(1)-4、蘭学塾「絲漢堂(しかんどう)」の橋本宗吉の墓がある念仏寺(1)-5、織田作之助の墓がある楞厳寺(1)-6、主夜天尊(盗難除)の成道寺(1)-7など、この付近にも多くの史跡がある。

(1)-1 観音寺(かんのんじ)

〔城南寺町(じょうなんてらまち)〕

地図を見る

観音寺


 円珠庵から南へ約50m下ったところに、観音寺がある。
当寺はもともとは円珠庵の道をへだてて南側現在の高津中学の位置にあった。しかし昭和20年3月、戦災により罹災し、すべてを焼失した。その後27年には区画整理によって移転を余儀なくされ現在地に移った。
当寺を再興された月海上人は今から約200数十年前、当寺において仏法をおさめられ大変徳高く、上人の説法される場所はたちまち数百人の信者が集まったと伝えられている。毎月21日の弘法大師縁日には多数の信者をひきつれて大師巡りをされたといい、このことから大阪大師巡りの開祖といわれている。(右の写真:観音寺)

(1)-2 善福寺(ぜんぷくじ) (どんどろ大師) 

〔空堀町(からほりちょう)〕

地図を見る

善福寺(どんどろ大師)


 宝亀9年(778)開成皇子が開基したと伝えられる。
善福寺の地にはもと真言宗鏡如寺があった。その本尊弘法大師が俗に「どんどろ大師」と呼ばれた。「どんどろ」は土井殿の訛(なまり)で昔土井氏の邸宅があったことによるとされている。
戦災前毎月21日は大師参詣で非常な賑いであった。また寺前の通路は、近松の名作阿波の十郎兵衛がその子おつるを殺したところとの俗伝がある。(右の写真:善福寺(どんどろ大師))

(1)-3 心眼寺(しんがんじ) (まん直(なお)し地蔵) 

〔餌差町(えさしまち)〕

地図を見る

心眼寺


 元和8年(1622)僧、白牟が創建した寺で、真田幸村父子の冥福を願って建立されたお寺である。門扉に真田家の家紋の六文銭が張りつけてあるのはそのためである。心眼寺には「まん直し地蔵」があり、まん(運)の悪い時に祈願すると効験があると言われている。(右の写真:心眼寺)

(1)-4 大応寺(だいおうじ) (木村兼葭堂(きむらけんかどう)墓所)

〔餌差町(えさしまち)〕

地図を見る

大応寺


 寛永元年(1624)僧、証誉の創建。大応寺には木村兼葭堂の墓がある。
物識りの代名詞とまで言われた木村兼葭堂は北堀江の人で、酒造を業とし、坪井屋吉右衛門と名乗った。後藤隠岐守基次(又兵衛)の7世の孫であるという。学問を好み11歳の時片山北海の門に入って漢学を学び、長じては詩・書・文・画に才能を発揮し、特に物産本尊学について精通していたという。
木村兼葭堂邸跡は、西区北堀江4丁目市立中央図書館南東角にある。(右の写真:大応寺)

(1)-5 念仏寺(ねんぶつじ) (橋本宗吉(はしもとそうきち)墓所)

〔上本町(うえほんまち)四丁目〕

地図を見る

念仏寺


 天正8年(1580)僧、大誉の創建である。
念仏寺に墓のある橋本宗吉は宝暦13年(1763)北堀江に生まれた。大槻玄澤の門に入り蘭学をおさめ、寛政10年ごろ、中央区南船場において蘭学塾「絲漢堂(しかんどう)」をひらいた。またわが国の電気学の第1歩を開拓した。彼が没したのは天保7年(1836)のことである。(右の写真:念仏寺)

(1)-6 楞厳寺(りょうごんじ) (織田作之助(おださくのすけ)墓所)

〔城南寺町(じょうなんてらまち)〕

地図を見る

楞厳寺


 慶長2年(1597)僧、禅牛の開創である。楞厳寺には織田作の名で親まれ浪速の体臭をもつ小説を発表した織田作之助(1913-1947)の墓所がある。彼の名を一躍挙げたのは「夫婦善哉」である。この小説は千日前の裏手にあたる法善寺横丁のぜんざい屋「夫婦善哉」を背景にミナミで生活する庶民の愛情を風俗的に描いた作品である。織田作之助は大正2年(1913)天王寺区上汐町4に生れ、府立高津中学から第3高等学校文科に入学したが、病気退学の止むなきに至った。そののち新聞記者としてジャーナリストの世界に入り、当初は劇作家を志していた。しかしスタンダールの小説「赤と黒」を読み小説家となることを決意したという。以後「夫婦善哉」のほかの作品で大阪の庶民のねばり強い人生、風俗を描き人気作家の仲間入りをしたのである。しかし読売新聞に「土曜夫人」を連載中、未完のまま36歳の若さでこの世を去った。今でも大阪の文学を語る時、織田作の名を忘れることはできない。母校である高津中学校(現高津高校)には織田作之助記念文庫が設けられている。(右の写真:楞厳寺)

(1)-7 成道寺(じょうどうじ) (主夜天尊(しゅやてんそん)) 

〔餌差町〕

地図を見る

 

成道寺

 成道寺を創建した僧袋中(たいちゅう)は徳の高い人で、この地に仮庵を結び説法をしたところ、多くの信者が集まり徳を慕って財を持ち寄り、成道寺ができたといわれる。ある時、袋中は頼まれて沖縄に伝導に出かけたが、その帰路海賊に襲われた。袋中が平然と合掌瞑目し念仏を唱えると不思議や雲中に霊像が現れ海賊は奇瑞に恐れて退散したため生き仏様と崇められたといわれる。袋中はこの像こそ仏法の守護神主夜天に違いないと像を刻んで安置した。像は現在も境内に祀られ盗難除けの神として、「盗っと神様」の名で広く信仰されている。(右の写真:成道寺)

(1)-8 三光神社(さんこうじんじゃ) 

〔玉造本町(たまつくりほんまち)〕

地図を見る

三光神社


 三光神社は、古くは「月日山神社」、後に社地を姫山と呼んだことから「姫山神社」と呼ばれていた。明治以後は「宰相山神社」から再び「姫山神社」に戻り、明治41年境内の全国唯一の中風除けの神、三光宮を合祀し、「三光神社」と呼ばれるようになった。毎年6月1日から7日まで中風祈願大祭が行われ、全国各地から多くの参拝者が訪れる。
また、古くから三光神社の地に真田の抜け穴の話が伝えられている。慶長元和の大阪の合戦の頃、真田幸村がこの地に偃月城と名付ける塁を築き、大阪城まで通じる暗道を造ったと言い伝えられており、今も「真田の抜け穴」として保存されている。

探している情報が見つからない

このページの作成者・問合せ先

大阪市天王寺区役所 市民協働課

〒543-8501大阪市天王寺区真法院町20番33号(天王寺区役所3階)

電話:06-6774-9743

ファックス:06-6774-9692

メール送信フォーム