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大阪市における事業の歴史と実績

2024年2月7日

ページ番号:22089

大阪のまちづくりと土地区画整理事業

大阪のまちづくり

秀吉のまちづくり

 近代都市大阪の母体となる“まちづくり”は、豊臣秀吉が大坂城を築くとともに、城の西一帯の低地に城下町をつくった「大坂建設」が始まりでした。その範囲は、現在でいうと北は大川、南は空堀、東はJR環状線、西は東横堀川という広大な区域でした。その区域に、東横堀川、天満堀川、西横堀川、阿波堀川を開削し、その土砂で宅地を造成し、東西には四間三分(約8m)、南北には三間三分(約6m)の道路を碁盤目状に配置しました。

 この城下町には、伏見、堺、平野郷などの古いまちから移ってきた町人たちが、家を構えました。その当時の江戸、熊本、金沢などの他の城下町では、7割から8割が侍屋敷であるのに対して、大坂の4分の3が町人町であったということは、庶民的な生活文化の伝統を育んだばかりでなく、大阪の「住民主体のまちづくり」という面で、今日まで引き継がれています。

江戸時代の大坂のまちなみの図

<江戸時代の大坂のまちなみ>

 大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡して市中は、一時荒廃しましたが、徳川氏によって大坂城主に起用された松平忠明は、河川改修や大阪市全面積の3分の1に相当する新田開発など積極的な“まちづくり”で、離散した町民を呼び戻し、「天下の台所・大坂」の発展の基礎を築きました。

 このように、大坂のまちづくりの基礎は、豊臣秀吉や松平忠明などによる先見性のある計画的な基盤整備によるところが大きく、こうした手法は、秀吉によって全国に配された大名等によって受け継がれました。その意味でも、大坂は我が国のまちづくりのパイオニア的存在であったといえます。

明治維新後のまちづくり

 大阪は一時衰退に向かいましたが、その後、工業化の波に乗って急速な発展を遂げ、市制が施行された明治22年には、江戸時代の最大人口である40万人を超えていました。さらに明治30年代後半、大阪市の人口は100万人を超え、それにともなう市域の拡張で、市街地が無秩序に拡大し、生活環境や環境汚染など、様々な都市問題がクローズアップされてきました。

 大正8年には、都市計画法や市街地建築法などが公布され、計画的に都市建設を進める法制度の充実がはかられました。これにより、御堂筋などの都市計画道路整備や建築線制度を活用した道路拡張、市域拡張にあわせて新たに編入する区域で行われた組合土地区画整理事業など、民間活力を生かしたユニークな都市基盤整備も着々と進められました。

第二次世界大戦後のまちづくり

 戦災で都市部を中心に、市域の27%にあたる50平方キロメートルが焦土と化した大阪市の復興にあたっては、土地区画整理事業を中心に“まちづくり”が進められてきました。その後の高度経済成長期には、自動車交通の激増や市周辺部の急速な市街化が進んだため、昭和45年の大阪万博を契機として、市中心部の高架道路整備、交差点の立体交差化、市周辺部の幹線道路整備など、骨格幹線道路網の充実が図られました。同時に、緑化の推進や高潮対策という、新たな“まちづくり”も次々に行われました。
 大阪万博以降は、社会的経済的諸条件の変化や市民の価値観の変化などから生じる時代のニーズに対応するため、従来から行ってきた諸施策の内容の一層の高度化を図るとともに、アメニティ向上などの新たな施策を加え、新時代への“まちづくり”をめざして多様な施策展開を図ってきました。

大阪の土地区画整理事業

明治末期から昭和10年代

 大阪の「土地区画整理」の歴史は、明治末期にはじまります。この頃の大阪は、明治維新による衰退からようやく立ち直り、工業化の波に乗って著しい発展を遂げました。これに伴って、人口の集中と市域の拡大が続き、都市部の市街地の拡がりは、基盤整備のなされていない周辺部にまでおよび、無秩序な宅地の拡がりが、大きな社会問題になりました。明治32年、農地の形状等を改善するため「耕地整理法」が制定されました。耕地整理とは、はじめは農地の改良に用いられた手法で、土地を利用するに当たって、昔からの道路や水路に沿った不整形なままでは利用しにくくて効率も悪いというような場合に、土地の交換や分合によって道路を真っすぐに配置し、土地を整形する方法です。「耕地整理法」が明治42年に土地区画整理の原型となる「(新)耕地整理法」に改正されて以降、本市周辺部では耕地の造成よりも住宅地の開発を目的とした耕地整理が広く行われてきました(27地区・2,280ha)。大正8年には、都市計画法が生まれ、土地区画整理事業は都市計画として位置づけられることとなり、大正末期から昭和にかけて、土地所有者が土地区画整理組合を設立し事業が実施されてきました。
 この事業は、昭和初期に至るまで活発に行われ、その面積は72箇所約3,560haにおよんでおり、大阪市の基盤整備に大きな足跡を残しています。現在の市周辺部における整然としたまちなみのほとんどは、このような民間の事業により整備されたものです。また、戦前における公共団体施行の土地区画整理事業としては、大阪駅前の約5haの地域において、本市が旧都市計画法第13条の規定によって昭和10年に、内務大臣の施行命令を受けて事業に着手し、昭和15年に事業を完了しています。

昭和20年代

 昭和21年からは、大阪が第二次世界大戦で受けた大きな被害の復興を目的とした戦災復興土地区画整理事業や、高潮災害の防止を目的とした港湾地帯区画整理事業のあわせて約3,529haにおよぶ両事業が始められると同時に、都市部の主要幹線道路や都市公園を中心に多くの道路・公園などが整備され、これらによって大阪の“まち”が生まれ変わったといえます。

港湾地帯(高潮対策のための地盤の盛土)

<港地区の地盤のかさ上げ>

戦災復興事業(中央大通り九条駅付近)

<中央大通りの工事の様子>

昭和30年代

 昭和30年代には、無秩序な宅地化の防止と合理的な宅地転用を目的とした宅地造成土地区画整理事業を東淀川区、住之江区において実施してきました。
 また、高度成長にともなう都市基盤整備の拡張のため、昭和36年には新大阪駅周辺において、同駅と都心部を連絡する幹線道路等の整備及びその周辺地域の土地利用の増進を目的として、新大阪駅周辺土地区画整理事業(淀川区・東淀川区)に着手し、また、国道43号線(第2阪神国道)の早期開通と沿道地域の道路・公園などの整備及び土地利用の増進を目的として、第2阪神国道西淀川土地区画整理事業(西淀川区)に着手しました。

新大阪駅周辺の事業前の様子

<新大阪駅周辺の事業前の様子>

新大阪駅周辺の様子

<新大阪駅周辺の様子>

昭和40年代以降

 市周辺部の都市基盤整備と宅地供給を促進し計画的な市街地整備の推進を図るため、昭和44年に北島地区(住之江区)、昭和52年に長吉瓜破地区(平野区)、昭和55年に東淀川東部第1地区(東淀川区)、昭和61年に国際花と緑の博覧会の開催を契機として茨田北地区(鶴見区)、平成3年に新駅設置を契機として加島地区(淀川区)に着手しました。これらの地区は既に換地処分を行っています。
 以降、継続してきた事業を順次完了し、最近では、令和元年・平林四号池西地区、令和2年度瓜破東2丁目地区(個人) 、令和3年・瓜破東二丁目第2地区(個人)、生江三丁目地区(個人)、福島区海老江七丁目9・10番街区周辺地区(個人)、福島区海老江八丁目6番街区周辺地区(個人)の換地処分を行い、現在は、淡路駅周辺地区(公共)、三国東地区(公共)、大阪駅北大深西地区(都市再生機構)、西喜連住宅第2地区(個人) 、北浜三丁目地区(個人)、長原駅前地区(個人)、矢田南部地区(個人)、中之島五丁目地区(個人)で事業が行われています。

 これらの戦後の土地区画整理事業は、67地区約5,307haで実施されており、戦前の事業と合わせると167地区約11,152haとなり、この面積は大阪市の約50%に達しています。
 このように「都市計画の母」といわれる土地区画整理事業は、大阪市の“まちづくり”に大きな役割を果たしています。


大阪市における土地区画整理事業の歴史(事業目的の変遷)

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大阪市における土地区画整理事業の施行実績

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このページの作成者・問合せ先

大阪市 都市整備局市街地整備部区画整理課事業調整グループ

住所:〒530-8201 大阪市北区中之島1丁目3番20号(大阪市役所7階)

電話:06-6208-9412

ファックス:06-6202-7025

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