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今月の1点 バックナンバー(平成22年度)[大阪市立近代美術館建設準備室]

[2011年12月12日]

平成22年度バックナンバー

2011年3月

早川良雄 はやかわよしお(1917-2009)
《第3回デモクラート美術展》
早川良雄 《第3回デモクラート美術展》

1952年
紙・印刷
53. 0×37. 2センチ

 早川良雄は第2次大戦後、大阪でデザイン活動を本格的にスタートさせ、2009年に亡くなるまで大阪をはじめ日本のグラフィックデザイン界をリードしたデザイナー、イラストレーターでした。
 このポスターには1950年代の早川を語る3つの手がかりがあります。まず第一は、これがデモクラート美術家協会の展覧会告知ポスターであるということ。左下には瑛九、泉茂といった美術作家や河野徹、棚橋紫水といった写真家の名前と並んで、早川自身の名前も見えます。デモクラート美術家協会は、戦後の自由な社会的な雰囲気の中で作家の瑛九と、当時大阪市立美術館の学芸員であった森啓との議論の中から生まれた美術分野横断型の新しい美術家集団でした。早川も泉茂や森啓との関係から、同じデザイナーの山城隆一とともに参加していました。当時の早川がデザインだけにとらわれず、戦後美術の大きな枠の中で生きていたことが分かります。
 二つ目はポスターのタイトルの描き文字です。当時は活字の大きさに限界があったこともあり、大きなタイトルなどは手描きで制作されました。早川の描き文字は、明朝体の特徴を持ちつつ独特な軽みとリズム感をもち、「カストリ明朝」などと揶揄されながらも、当時すでに早川デザインの代名詞として定着していたのです。
 最後は下の部分に書かれた「カロン洋裁研究所生徒募集」です。早川は阿倍野の近鉄百貨店で戦後のキャリアをスタートさせましたが、その4年後には独立し、心斎橋大丸と御堂筋をはさんで向かいに位置する洋裁学校であるカロン洋裁研究所の2階に事務所を構えました。そこで家賃代わりに制作されたカロン洋裁の生徒募集のポスターは、やはり彼の初期の代表作となっています。ここでもカロン洋裁研究所は、デモクラート美術家協会のスポンサーとして彼らの活動を支援していたようです。
 このポスターの中には、当時の早川の作風はもちろん彼の置かれた美術状況や人間関係が凝縮されており、単に早川らしいだけでなく、当時を記録するタイムカプセルとなっています。ポスターという芸術にはそれも重要な要素なのです。(研究副主幹 菅谷富夫)

2011年2月

池田遙邨 いけだようそん(1895-1988)
《雪の大阪》

池田遙邨《雪の大阪》

1928年
絹本着色
169. 0×235. 4センチ

 1928年(昭和3)2月11日の未明、大阪は22年ぶりの大雪に見舞われました。前日から降りつづいた雪は、明けて「紀元節」の街を見慣れぬ銀世界に変えます。普段は煤煙に曇る大都会大阪、それが一夜の天候変化で清浄無垢の「浄土」に生まれ変わることに、遙邨は強い感興を憶えたのでしょう。現在の東洋陶磁美術館屋上あたりから望んだ中之島の景観を大画面にまとめ、秋の第9回帝展に出品しました。
 遙邨はそれまで数年の間、社寺曼荼羅など平安・鎌倉期の垂迹(すいじゃく)美術を研究し、《林丘寺》(ふくやま美術館蔵)や《南禅寺》《華厳》を発表、神気みなぎる山を背に幾何学的な伽藍や滝の俯瞰的な形象を積み上げ、森厳な自然に没入する日本人の心性を表現してきました。同じ構成を一転、近代都市の景観画に用いたのがこの作品《雪の大阪》です。しかし、雪をかぶって単純化され、輪郭を現した都市のモダンな機能美を、単に遙邨は描きたかったのではありません。心に去来したのは当麻曼荼羅(たいままんだら)や青海曼荼羅(せいかいまんだら)ではなかったでしょうか。中央水上庭園の橋は、浄土変相図の宝池に浮かんだ宝楼閣や舞台に架かる橋を思わせます。しかし、西方極楽浄土の豪奢な夕映えの金色ではなく、鈍い瑠璃色の河面を残して白銀に輝く朝の街は、まだ見ぬ東方浄瑠璃浄土なのかも知れません。
 上空にあくがれ出た遙邨の眼がたどるのは、東の方遠くから信貴生駒の山なみ、天守閣のない大阪城や新府庁舎、そして周囲に新旧和洋交じりあう甍(いらか)の波を寄せる天満・天神の両橋です。手前を横切る難波橋には、寒そうなしぐさを凍らせる人影が二つ三つ……。欄干ごしの草木はやまと絵のように優美な雪景色を見せ、噴水や音楽堂のエリアは西洋風の「凍れる音楽」を奏でます。しかし、水上庭園を囲む堂島・土佐堀の両河川には外輪船やポンポン船が動きはじめ、天神橋にはトラック、はるか林立する煙突からは盛んな煙が立ちはじめます。ひととき夢の繭(まゆ)をまとった街は、やがて騒々しい活力にみちた現実の大阪へと孵(かえ)ってゆくのです。(学芸員・熊田司)

2011年1月

バリー・フラナガン
《ボウラー》
バリー・フラナガン《ボウラー》

1990年
ブロンズ
304. 8×85. 1×223. 5センチ

 2011年の干支でもあるウサギは、ミッフィーやピーターラビットなど絵本の世界をはじめ、文学、神話、芸術において広く親しまれています。戦後の英国を代表する彫刻家バリー・フラナガン(1941-2009)が手がけるのは擬人化されたノウサギのシリーズで、高さ3メートルもある《ボウラー》はその代表作の一つです。
 ボウラーは、野球に似た英国発祥の競技「クリケット」の投手のこと。両耳をピンと立てたノウサギは、人間のように立って胸を張り、左脚を高く揚げ、しなやかな投球の跳躍感に溢れます。ヨーロッパでウサギはいたずら好きな動物と見なされていますが、細身の肢体が見せる、おどけたようなポーズがユーモラスです。フラナガンの他の彫刻でも、ウサギたちは鐘の上で跳びはね、バレエを踊り、ロダンの《考える人》を模して思索するなど、人間以上に人間らしく振る舞い、笑いを誘います。
 英国の北ウェールズ出身のフラナガンは1960年代から70年代にかけて、布やロープ、砂、石膏などを素材に抽象的な作品を制作していましたが、1979年に最初のノウサギの彫刻を手がけ、以後はゾウや馬、そしてノウサギをテーマに動物を具象的に造形化しました。人間像の代わりにノウサギを使うことで、フラナガンは西洋美術の偉大な伝統に立脚しつつ、彫刻を伝統から解き放ち、人間のすべての行動を作品の中に表せる自由を獲得したのだといえます。人間とウサギという二つの世界を自由に行き来するフラナガンの彫刻については、思想家の中沢新一氏が著書『野ウサギの走り』(1986)で論考を寄せています。
 現実のウサギは用心深い小動物ですが、フラナガンの《ボウラー》は人間を見下ろすような偉容で、全力投球するダイナミックな姿は爽やかです。このノウサギのように私たちも伸び伸びと生きることができたら、人生は楽しそうです。
 フラナガンは1982年に英国代表で第40回ヴェネツィア・ビエンナーレに参加、彼の作品は世界中の美術館や公園にコレクションされて、日本でも札幌、宮城、東京、名古屋、和歌山、広島、福岡など各地で見ることができます。作者は惜しくも2009年8月31日、68歳で生涯を閉じました。(主任学芸員 小川知子)

2010年12月

上村松園 (うえむらしょうえん 1875-1949)
《汐くみ》
上村松園 《汐くみ》

1935(昭和10)年頃
絹本着色
127. 3×42. 0センチ

 近代の女性芸術家で、上村松園ほど名声を成し、尊敬を集めた日本画家はいないでしょう。近年なお頻繁に開催される回顧展は多くの観客で賑わい、気品ある女性像に感嘆させられます。京都を拠点に、彩管(※)ひとすじに生きた松園は、女性が一律に「閨秀画家」と呼ばれた時代にも実力者として活躍しました。男性が芸術界を占めるなか、松園は絵を志す後進女性の憧れ、そして目標でした。東京の池田蕉園(1886-1917)、大阪の島成園(1892-1970)など多くの女性画家は松園にちなんで画号に「園」の字を付けています。
 そんな松園が60歳頃の円熟期に描いた《汐くみ》は、能の「松風」に趣向を借りた日本舞踊の場面です。須磨に流罪となった在原行平は、松風と村雨という海女の姉妹を寵愛します。やがて行平は都に戻り、残された姉妹は須磨の浦で汐を汲みながら寂しく暮らし、行平の形見である長絹と立烏帽子を身につけて思慕の念を慰めたといわれます。《汐くみ》で松風は長い竿に桶を掛けて静かで優美な舞を見せています。
 「汐くみ」は浮世絵にも登場する伝統的な画題ですが、近代の作例が乏しいことを松園は惜しみ、後世に残すべく意識的に取り組みました。大正12年には次のような言葉を残しています。
 「「汐くみ」は私としては相当に苦心を費やし、努力を払うた作品でございます。(中略)かういふ画はどちらかと言ひますと損な画で、いはゆる新しい様式のものではございません。(中略)しかし私は常に考へて居りますことは、この古い様式の画を、私どもぐらゐが守つて居りませんと、新しい画流行りの現代では、誰もかういふものを描く人がなくなつて、やがて美人画は跡を絶つに至るだらうと思ひます。」(「「汐くみ」の画に就いて」、『大毎美術』2-11)
 大作ではありませんが、松園のライフワークであり、ほかに水野美術館所蔵の《汐汲み之図》、セキ美術館所蔵の《汐くみの図》なども知られます。関東大震災や軍国主義への傾きなど、変動する現世を見据えつつ、松園は古典美の保存に心を砕いて自らの芸術を深化させました。(主任学芸員 小川知子)

(※彩管=絵筆のこと)

2010年11月

今井俊満(いまいとしみつ 1928-2002)
《黄葉賀(もみじの賀)》
今井俊満 《黄葉賀(もみじの賀)》

1999年
アクリル・ステンシル、カンヴァス
115. 0×148. 0センチ

 今井俊満は船場の繊維卸商を父に持つ画家で、終戦直後の1952年に二十代半ばで単身パリに渡りました。パリで今井は、当時最先端の抽象美術運動「アンフォルメル」(フランス語で「非定型」の意味)に加わり、この運動を日本にも広めました。西洋文化の只中に身を投じた今井でしたが、西洋的合理主義に異を唱えるアンフォルメルとの出会いによって日本の美に目覚め、以後作風を幾度も転じながら、日本の伝統文化と現代美術との接点を探り続けました。
 1980年代に入って今井は、日本回帰の試みを一層押し進め、これまでの抽象画から日本の自然や四季の美をモチーフとした具象画へと画風を一変させました。その新たな路線の最初に生まれたのが、平安朝や琳派の美にならい、豪奢さや「もののあわれ」を追求した「花鳥風月」シリーズです。
 金色の地の上に、色づいたカエデの葉が画面一杯に散らされた《黄葉賀(もみじの賀)》は、このシリーズの一点です。「もみじの賀」とは紅葉を鑑賞するための祝宴のことで、『源氏物語』にも出てきます(第7帖「紅葉賀」)。背景を二分する水色や、ところどころに見られる流水紋から察して、絵の舞台は渓谷などの水辺でしょう。
 《黄葉賀(もみじの賀)》のカエデや流水紋は、日本古来の文様を型紙で着彩しています。「花鳥風月」全般に共通するこの手法は、友禅染めにならったものであると同時に、既存イメージの「引用」やシルクスクリーンといった、ポップアートの常套手段も踏まえたもので、ここで今井は、日本の伝統的イメージをポップアートに引き寄せながら現代に再生させようとしています。(学芸員 清原佐知子)

2010年10月

小出楢重(こいでならしげ) 《支那寝台の裸女》

小出楢重 《支那寝台の裸女》

1930年
ガラス絵
24. 2×33. 4センチ

 透明なガラスに裏から絵を描き、緑を帯びたガラス層の光の屈折を通して鑑賞するガラス絵は、宝石のようにつややかで工芸的な味わいが古くから珍重されてきました。それを芸術にまで高めた作家として、即座に思い起こされるのが小出楢重です。大阪ミナミの島之内に生まれ育った楢重は、期日を定めて夜の街々をいろどる夜店の散策が、子どもの頃から何よりも好きでした。なかでも規模の大きい平野町の夜店で、明治が大正に改まる頃、楢重ははじめてガラス絵を手に入れます。そして、その魅力のとりことなって自らも制作を試みたのが大正8年(1919)、出世作《Nの家族》の制作に苦しんでいた時期でした。
 展覧会出品のための息づまる油絵制作のかたわら、「例えば定食のあとのアイスクリーム位いの価値」を持つ、いわば気晴らしとしてはじめたガラス絵制作でしたが、工夫を重ねて技術を自分のものとし、ほどなく個性的な様式を確立します。最初エナメルを用いましたが、後には主として油絵具を使用し、大画面には粉絵具を用いるなどして、思うとおりの効果を得ました。そして完成作は古い額縁を仕立て直した自製額に入れ、珠玉の輝きを与えたのです。
 《支那寝台の裸女》は、こわれやすいガラス絵としては最大級の大きさです。慎重に塗り重ねたグレー調の寝台を背景に、鮮やかな肌色の明暗変化を見せて仰向けの裸婦が浮かび上がります。裏面から小さなガラスに描くという制約から、フォルムは簡潔で単純化されていますが、薄緑がかったガラス越しに見る色彩の重なり具合は、油絵とはまた異なる複雑で曇った表情を肢体にもたらし、「水中の美人」のような魅力をたたえます。(学芸員 熊田司)

2010年9月

福田平八郎 《漣》
福田平八郎 《漣》

1932年
絹本着色
157. 0×184. 0センチ

 福田平八郎(1892-1974)は若い頃から水辺の光景に取り組んでいますが、40歳で描いた《漣》ほど釣りの体験と結びつく作品はありません。美学者で恩師の中井宗太郎に誘われて釣りを始めたのは《漣》を描く一年ほど前のこと。夜中も画室に閉じこもって描く生活で身体を壊していた平八郎は、釣りによって健康を回復し、絵も生気を取り戻します。釣りは生涯の趣味となり、平八郎は世に「釣り人」「仙人」などと呼ばれるようになりました。
 ある初秋の日、さっぱり釣れないので湖面を見つめていると「肌にも感ぜぬ微風が美しい漣を作っている。瞬間私は『これを絵にしてみよう』と思った。波の形は瞬間の動きでなかなかつかみにくい。なんとしても、よく見る以外に方法はないと一生懸命考えた」と後年、平八郎は語ります。スケッチや下図で構図を練って水の躍動感を研究し、また岡本東洋が撮影した水面の写真を参考にしたことも神奈川県立近代美術館葉山の調査で判明しています(「画家の眼差し、レンズの眼」展、2009年)。
 一方で平八郎は、対象物の「形や線よりも先に色彩を強く感じる」と述べます。気象の変化で色彩を変える水面は、《漣》では銀地に鮮やかな群青をのせられました。この銀地は、じつは銀箔ではなく、金箔を押して更にプラチナ箔を重ねたもので、それゆえ銀色に暖かみが加味され、画面に深みを与えています。
 《漣》は水鳥も草木も描かず、水面に揺れる波と光の表現に集中しました。自然の被造物を客観的にみつめ、写実から単純化をへて装飾画に至る平八郎の創作は、感覚と知性を融合させた芸術です。第13回帝展での発表当時、この前代未聞の日本画に対して賛否両論あり、浴衣の模様のようだなどと批判されました。今日、この作品は日本画が新境地を切り開いた先駆的な試みとして高く評価されています。(主任学芸員 小川知子)

2010年8月

広瀬勝平 《欧州風景》 
広瀬勝平 《欧州風景》 

1919年
油彩,カンヴァス
60. 5×50. 0センチ

 多くの人々が気軽に海外旅行を楽しむ今日とは異なり、1世紀前の日本では海外へ行くことは大変なことでした。画家たちは油彩画の本場で学ぶために強い熱意をもって海を渡りましたが、中には志半ばにして異国の地で亡くなる画家もありました。
 兵庫県生まれの広瀬勝平(1877-1920)は、東京美術学校(現在の東京芸術大学)で学んだ後、明治35(1902)年に大阪毎日新聞社に入社、挿絵画家として活躍しました。ヨーロッパ留学のチャンスを得たのは大正8(1919)年のこと。ベルサイユ講和条約調印式の取材のため、毎日新聞社から派遣されたことがきっかけでした。1月14日、丹波丸に乗船し神戸港を出航、香港、シンガポール、インド洋、スエズ運河を経由して、一ヶ月あまりをかけてマルセイユに到着します。勝平は船上の様子から6月28日の調印式の場面までをスケッチに描き、十数回にわたって新聞紙上に連載しました。その後もフランスで油彩画の勉強を続け、各地に写生旅行に出かけたり、マティスに作品を批評してもらうなど、精力的に活動します。留学中に描かれた本作品では、全体が柔らかい色調で統一され、穏やかな光に満ちた風景を描き出しています。画面の中央に橋を置き、下には横へ広がる自然の風景を、上には高くそびえる塔と重厚な建物を配し、船のマストが上下の景色をつなぐなど、巧みに構成さていることが分かります。
 大正9(1920)年1月、勝平は仲間とともに写生旅行に訪れたナポリで突然病に倒れます。懸命な看病のかいなく2か月後に亡くなり、ナポリ郊外の共同墓地に手厚く葬られました。43歳の若さでした。(学芸員 高柳有紀子)

2010年7月

ウンベルト・ボッチョーニ 《街路の力》
ウンベルト・ボッチョーニ 《街路の力》

1911年
油彩,カンヴァス
99. 5×80. 5センチ

 ビルの谷間に強烈な人工光が差し込む、都会の一角。ライトをつけた路面電車がこちらへ突進し、その脇を影絵のような人々が歩いています。まるで切り子ガラスや万華鏡のように、画面一面に様々な線や色が飛び交い、その中で電車も人も建物も左右に傾き、歪み、揺れ動いています。街景全体が光の波に飲み込まれ、得体の知れない何か大きな力に突き動かされているかのようです。
 この絵を描いたウンベルト・ボッチョーニ(1882-1916)は、20世紀初頭のイタリアに現われた前衛芸術運動「未来派」の主要メンバーです。詩人マリネッティの「未来主義宣言」(1909年)に始まる未来派は、旧来の美意識を否定し、「機銃掃射をも圧倒するかのように、うなりをあげる自動車は、《サモトラケのニケ》よりも美しい。」(※)とうたいました。科学技術の進歩に共感し、電灯、映画、自動車、電車、飛行機など、文明の利器のもつダイナミックな力やスピードを、新たな時代の美として賞賛しました。
 未来派でとくに重視されたのは、スピード感の表現です。《街路の力》では、路面電車とそのライトの光が、奥から手前へと大きさを変えて3度描かれ、疾走する様子が強調されています。マンガの世界でも、手や足などを何本も描いて素早い動作を表現することがよくありますが、こうした技法は、実は未来派が「元祖」です。画面を切り刻むように四方八方に走る線や、反発しあいながら輝く色彩も、この絵に躍動感をもたらしており、刻一刻と相貌を変える都会の、慌しさや移ろいやすさが、ここに見事にとらえられています。(学芸員 清原佐知子)

(※=「未来主義宣言」の中の一文。《サモトラケのニケ》は古代ギリシャの有名な女神像。)

2010年6月

今井祝雄  《白のセレモニー HOLES #5》

今井祝雄 《白のセレモニー HOLES #5》

1966年(昭和41年)
アクリル,プラスティック
171. 5×122. 5×16. 5センチ

かたちのちから 高度成長期の美術篇[大阪市立近代美術館コレクションを中心に]展(6月20日まで)(※)では、1950-60年代にデビューした人、トップランナーだった人の作品を展示していますが、多くの出品作家の方が今でも元気に活躍されています。今回紹介する今井祝雄さんは、その中でも最年少、唯一戦後生まれの作家(1946年生まれ)です。

今井さんは「具体美術協会」という、当時の代表的な前衛グループのメンバーの中でも最も若い世代で、高校在学中に既に「具体展」に出品しています。「白のセレモニー HOLES #5」は、中之島にあったグタイピナコテカ(具体美術協会自前の展示施設)での個展(1966年)に出品されたものです。このときの個展は、この作品のような白いレリーフ状の作品が会場の壁にたくさん取り付けられたもので、個々の作品だけでなく作品同士の関係性も重要な、1970年代以降盛んになる「インスタレーション」(配置芸術・空間芸術)を先取りするような展示だったようです。

写真は「かたちのちから」展の会場で撮影したものですが、実は作品の向き・傾き具合は厳密な指示がありません。4つの辺がどれも水平や垂直にならないように、という指示があるだけで、あとは展示する人が会場に合わせて角度を決めます。(今回は筆者が決めましたが、展覧会に来られた今井さんからOKをいただいています)。なので、次に展示されるときにはまた別の角度、別の見え方になる「一期一会」的な作品ともいえます。

今井さんは初期の白いレリーフ状の作品の後、写真やビデオを用いた作品、野外彫刻・モニュメントなどさまざまな作品を作っています。モニュメントは京阪天満橋駅のホームや、新大阪駅前広場などで見ることができます。(学芸員 三井知行)

文中の「かたちのちから 高度成長期の美術篇 [大阪市立近代美術館コレクションを中心に]」展は、すでに終了した展覧会です(2010年4月29日~6月20日/大阪市立近代美術館(仮称)心斎橋展示室)

 

2010年5月

菊畑茂久馬 《ルーレット》

菊畑茂久馬 《ルーレット》

1964年(昭和39年)
エナメル・アッサンブラージュ,木
97. 5×79. 1×12. 1センチ

この作品のタイトルは「ルーレット」ですが、カジノやくじ引きなどで使われる一般的なルーレットそのままの形はしていません。同心円と放射状の直線、対比のはっきりした色使いなどはルーレット的ですが、画面にはつぶれた空き缶や野球のボール、卵のようなオブジェなどが貼り付けられ(このようなコラージュの立体版のような技法を“アッサンブラージュ”といいます)、よく見るとその貼り付けられた板自体が廃材で出来ているようです。
ルーレット→カジノ→華やか・高級という連想からはかけ離れた、むしろ土俗的で呪術的にも見える作品ですが、ルーレット→賭博→物欲・俗世と連想すると、きれいごとや理屈だけでは割り切れない、人間のある種の真実をルーレットの姿を利用して表しているようにも見えます。

さて、現在も「地方分権」や「地方の時代」といった言葉をよく耳にしますが、美術の世界では1950年代後半から1960年代はまさに「地方の時代」でもありました。全国各地で新しい芸術、新しい表現をめざす人たちがグループを作り、地元の展示施設のみならず街頭や自然の中で、時には他地方に遠征・交流して盛んに活動しました。この作品の作者、菊畑茂久馬さんも参加した「九州派」はその中でも代表的なグループとして、一地方の枠を超え高く評価されています。現在も福岡を拠点に活動している菊畑さんの作品も、九州や大阪市立近代美術館建設準備室のほか各地の美術館に所蔵されています。(学芸員 三井知行)

2010年4月

佐伯祐三 《レストラン(オテル・デュ・マルシェ)》

佐伯祐三 《レストラン(オテル・デュ・マルシェ)》

1927年(昭和2年)
油彩,カンヴァス
54. 5×65. 4センチ

 描かれているのは、パリの下町にあるカフェ。でも、お客さんで賑わう時間帯ではなく、右側のテーブルにシルクハットの男性が一人座るのみ。左のテーブルにはグラスが忘れられたようにぽつんと置かれ、ひっそりとした様子です。
 この作品でむしろ主役なのは、画面に描き込まれたたくさんの文字でしょう。お店の看板、お酒の宣伝、ポスターの文字。かすれていたり、途切れていたり、くっついていたり。何と書いてあるのか、正確に分からないものも多くあります。一つ一つの文字は読み取れなくても、勢いのある筆遣いによって、文字と文字が次から次へと連続する心地よいリズムが感じられます。画面全体を見渡すと、文字に限らず、窓枠、扉を縁取る線、ついたて、入り口の上のランプなど、画面のあらゆるところが、生き生きとした勢いのある線であふれています。あちらこちらを向いた白い椅子や、四角い天板を支えるテーブルの脚までも、じっとみているとユーモラスに踊っているようです。

 1927年11月頃、佐伯祐三はアトリエの近くのカフェを集中的に描きました。この作品はその中の1点です。佐伯は有名な建物や名所ではなく、パリのありふれた街並みや庶民的な店などを、独特のタッチで描き続けました。しかし、翌年の3月に病に倒れ、再び筆を取ることなく8月に30歳で亡くなりました。秋から冬にかけての厳しい季節のなかで、パリを描き続けた佐伯。画面にあふれる線描は、佐伯の描く熱意がそのまま筆に込められたようであり、今でも私たちを魅了します。(学芸員 高柳有紀子)

このページの作成者・問合せ先

大阪市ゆとりとみどり振興局文化部博物館群担当近代美術館

住所: 〒553-0005 大阪市福島区野田1-1-86 中央卸売市場本場業務管理棟8階

電話: 06-6469-5186 ファックス: 06-6469-3897

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