子育てに関する文化というのは、世界的にだんだんアップデートされていまして、一緒じゃないんです、昔の子育てと今の子育て、何となく違いがわかります。 多分おそらく皆さん、私たち自分たちの子どもの頃と今の子どもたちに向けられているもの、ちょっと違います。 僕らの子どもころは不登校っていないです、あんまり。不登校という言葉もあったかな、あったかなくらいです。登校拒否って言っていましたね。 登校拒否という言葉が学校恐怖症という言葉だったんですよ、病気だった。 学校行くのが怖いというのがおかしい、こういう歴史です。そこから登校拒否という言葉になると、不登校という言葉になる。何かどんどん前向きになってくる。 何かちょっと、僕らの子どもが親になった時には何か自由登校とか選択登校とか、だんだんそういうふうになるのかな。 言葉の流れからいくとね、そんな気がしています。どうなっているのかということなんです、意味合い的に。 それはそのだんだん世界がどうやら子どもってどうやらこういうことらしい、学術研究とかも進んでいるわけです。 心理学というのが始まって、1800年代後半が心理学なので、1870何年とかなんですね。ドイツのライプツィヒ大学というところの心理学実験室ということなんですけど、 そこが心理学の始まりだと言われているので、150年くらいが心理学ってやつの歴史なんです。この150年ですごいアップデートされているんですね。 だんだん子どもとは何なのか、人間とは何なのか、心って何なのかとかね、そういうところが理解されて、それに合うようにやっていった方がいいねっていうふうになってきているわけですけど、 だんだんそれが進めば進むほどわかってきたのが、子どもって案外分かっているらしいというのがわかってきた。 私たちが子どもの頃、遡れば遡ると子どもなんか分かっていない、育てなあかん、言わなあかん、こっちがやらないと子どもは育たないってこういう認識なんです。 どうやらそうじゃないかもっていう、これが子育てという文化、知識のアップデートなんです。子どもには意志があり、思っていることがある、そして選択する能力がある。 皆さん、法律で子育てが決まっている訳じゃないわけですけれど、一応法律ってどういうふうに法律を変えていくのかっていうのを、人々の生き方に関係があるからね。 法律というのを動かしていくんですけど、ここ一応順番書いていますけれども、法律の力具合ですね。日本国憲法が一番、力的に一番強いんですね。 これ皆さん、2番目がわかっていないんですね。憲法の次に法律的に強い力というのは、これあの条約なんです。国際条約。これを元に私たちは各国において、法律を制定されているんですね。 法律にはその基本的人権の尊重とか、納税の義務とかね。納税義務を果たさなかったら憲法に違反しています。最も強い国の力に反抗している。納税してくださいね皆さん、憲法に規定されてます。 ここには条約に、これは世界の国際条約ですね。条約にその子どもの権利条約と言うんです。子どもの権利条約がもう随分前に今さっき言ったやつをアップデートしたんです。 子どもは自分で考えていますよ、自分の気持ちがありますよ、権利を持っていますよ、選択する能力を持っています、それを認めなきゃいけません。これはもう子どもの権利条約が国際的に定めています。 そして日本は1994年158番目に子どもの権利条約締約国です。 これが何度か子どもの権利条約締約によって、子どもの法律、今度この国で定める法律が少しずつ変化をおびていきまして、僕の知っている事情で行くと、 すみません、最新かどうか、僕はこれが最新だと思っているんですけれども、令和4年に日本の場合はこども基本法という法律が現在のベースに出来上がりまして、 ホームページ作っていますが、こども基本法という法律がもうちゃんと公開されてるんですね。これが子育ての今の土台なんです。 この法律とその説明を聞いていただくだけで、簡単に言えば皆さんの子育て方がわかります。 子育てってこういうふうにした方がいいんだな、それが今言ったやつです。子どもは子ども自身が思っていること、考えていること、選択する権利、能力を持っているらしい。 どう育つ、成長するってどういうことかっていうのをある意味厳密に一回考えてみていただきたいんですけど、成長というのは基本的にこちらが起こすものじゃないです、成長するものなんです。 成長させるというより、成長します、勝手に。 0歳児に、こいつ寝てるだけでは面白くないやろう、寝返りっていうやつを教えなあかん。寝返りはないいか、こうやってな、転ぶぞとこれやらないです、やりません。勝手にやるんです。 首座ってないです、最初ね。首グラグラですね。こいつかわいそうやな、首グラグラやな。首ってな力を入れるこうやってやってみろ、首に力入れる、首すわってきた、ないです。首すわるんです、勝手に。 5カ月間から7カ月でしたけど、次の段階に来る時、きっとこの動きなんやろうか、はいはいってやつをやらせなあかん、こうまずおしり上げろみたいな、この姿勢やみたいな。 右手を前に出せ、左手を前に出せみたいな、やりません。覚えるんです、勝手に。周りを見てやりたくなるんです、パパママを追いかけたいんです、兄ちゃん姉ちゃんいるなら追いかけたい。 下の子がね早いです何か覚えていくの、長男より次男の方がね、これ見ているからね、兄ちゃんおっかけたいからね。適応早いです下の子の方が、育てやすいです。だって自分でやりたいから。 モデルがまだね、ちょっと一歩先のモデルの方がモデルとして見やすいので、長男の方がわからないんです、長男長女よりも。 でもやっぱり大人を見て、こういうふうに動きたい、立ち上がりたい、自分で世界を探索したい、勝手にやります。それをその動きをちょっと、ちょっとなんです、こうやるといい、 ちょっとこう手を伸ばすとそれとれるよ、これは欲しいです。 基本的にその成長、発達のベースそのものは教えるからではありません。子どもは自分で獲得していきます。チャレンジして手に入れていく、そういう満足を得たいわけです。 それも厳密に考えたらそうなんです、そうなんですけれど、何かそういうふうに扱ってこなかったんです子育てというのは。やらなきゃ、どんな大人にするか親が決めきゃいけない。 こういう道を示してあげないと子どもは自分で考えられない、これ脅えなんです。親側が思ってる子どもに対する緊張感といいます。 これが元にベース判断です、だんだんそうじゃないかもなというふうになってきた。 子育てというもの、子どもというもの、自分で感じてて、自分で何かなりたくて、周りになんかあるわけですよ、モデルとかね。父ちゃんみたいになりたい、母ちゃんみたいになりたい、 兄ちゃんみたいに、姉ちゃんみたいに、何かあるんです。 それをどちらかというと、本人がやっていけるようにしていけばいいんだねということなので、それは子育て方の何がいいかみたいなことを厳密に規定するために今言いたいわけではないので、 僕みたいなことを言っていると、じゃあね私立受験させたらダメなんですかとかね。ないじゃないですか子どもの意思にね、基本受験したい子どもはいません、あんまり。 遊びたいんで子ども時代はね、とするとその親がその私立小学校とかに入れるために頑張るのはダメなんですか、強迫なんですか、虐待なんですかみたいなね。 そういうことを言いたいんじゃない。まあ子どもに意思があるという意味でいうなら、できたらね、それをもし親が経済力もあって、学習させるだけの余力もあって、 それを何か子どもにしてあげたいなって、もし思っている場合はこちら側のお勧めを勧めてあげたらいいんです。勧めるんです、義務化するわけじゃない。 いかにこの受験に取り組む価値、ここから先展開される学習の価値とか、それを是非お子さんにプレゼンしてあげてね、すごいよと、こう何かいいじゃないですか、 この世界をリードするそういうやつになれる価値ってあるんだよと、そういう魅力のために勉強していくのすごいことだよ。それでやりたいってなったらいいですね。 そこを無視すると、ちょっと強迫化してきます。子どもにも意思があるというそこは捉えておいていただきたいなと思います。ただ何か方向性を親が持ったら、その時点で問題なんです。 そういうことではあります。でも子ども自体権利がある。