心理的安全性とはね今日のテーマです。心理的安全性とは何か、心理的安全性の定義は生きる上での脅かし、今言っています。 これはどちらかというと育てる脅かしの話を言っていますけれど、心理的安全性の定義として生きる上での脅かしを減らす、人間のベースってね怖いんですね。生きていることがね、恐怖です。 生まれるってね恐ろしいです。お腹の中にいてね、呼吸いらないんですお腹の中にいたら、入ってくるんです栄養、へその緒つながっているんです。それを出産という作業ね、すごいですよ。 エラ呼吸ですよお腹の中にいる時、これが生まれるこの瞬間に空気の肺呼吸をこの一瞬に学習しなきゃいけない、大変なストレス、めちゃめちゃ危ない、エラ呼吸だったのに肺呼吸に切り替わります。 その栄養をへその緒から勝手にもらってたんです、これ切られるんですハサミでズバンって、恐ろしいね。生きることは怯えから始まります。 最初ね、チアノーゼ的な血流をうまく回せなくてね、残欠状態が多くてね。ちょっと黒っぽい紫みたいな感じで産まれてね。僕も息子が産まれた時、見てましたよ出てくる時ね。 何かすごい、出産ってこういうふうになっているんだなって、すごい何かもう初めて僕見れるのすごいドキドキしながら眺めてたんですけれども、何かこう何かちょっと思ってたのと違いましたね。 何も言わないですけれども、あんまりそれ言うとあれですね。でも何かそこから出てね、何か産まれでるという言葉とね、取り上げるという言葉があるんですけど、 僕はね取り上げるの方だなどっちかというと思いました。 すごくでもね脅かしなんです、この世界怖い、これをいかに自分でこの世界を探索する自由とね、心の安定性、それはあるよという、これが心理的安全性。 心に基地がある安全な状態に思える心理的安全性、生きる上で脅かしが減らす、ある意味だからこう人に会うんだということすごく重要です。 誰かに話しかける、誰かに物を頼む、誰かと共に生きていく、これ人間怖いって認知していたらできないです。すごく怖い、そうすると社会の幅が狭く、協力してもらえない、頼めない、 困っている自分で考えなきゃいけない、すごく生きることが難しい。情報も集められない、誰かが教えてくれない、これの脅かしをいかに減らすからなんだっていうそれを知っといていただければ、 自分らしくいられる内容は自分らしくいられる環境とミスや失敗しても責められない安心感という言い方を書いています。 それは何と言いますかね、何か子どもにすることみたいな定義でいくと、こういう定義なのかな、自分らしくいられる環境にしましょう。 思ったままを何かね言えるということかな、ミスとか失敗しても責められない、脅かしですから、基本的には責めるんじゃなくて教えたらいいと思っています。 責めるの中に教えるが含まれると思っちゃうんです。責めといたらそうせえへんようになるやろ、これはちょっとだんだんこの世界の子育ての文化のアップデートの中で、 責めるから覚えるということとはちょっと違うのかもなっていうふうになってきているわけです。 時代を遡れば遡るほど怒らなあかんなんですよ、だんだんこれ話が変わってきてね、叱ってもいいけど怒ったらあかんと言われるんですよ。これは10年20年前にそういう言葉がはやってました。 今は叱らなあかんという言葉が減ってきてるんです。叱らなあかんかどうか分からない、諭せばいいのかもしれん、さっきのあの学校恐怖症から登校拒否で不登校でみたいな話も、 そのだんだん何か子どもにガーって強い感情をぶつけなきゃいけないか、そうじゃないのかというのね。 だんだん理論が変わってきてまして、叱らなあかんということでもないか、ただその世の中の反応はね、いかにこっちが最新の子育て理論を子どもに実践したって社会は残っていますからね、 こういうこともあるよってそっちも教えなきゃいけないし、周りはぶち切れるねん、僕は今日ぶち切れなかった、それを言っといてあげないと、ちょっとまあ家の中で何でもいいよって言われるから、 外でも何でもいいっよ言われないですから、ただだから家でもぶち切れなあかんというのはちょっとまあ違うのかなという気はします、今はそうなんです。 目には目を歯には歯をみたいな、ハンムラビ法典みたいなどうやらそういうことじゃないみたいなんです。痛みを知らないから痛みを与えてしまう、どうもこれも違うらしいです。 逆ですどっちかというと。確かに痛みは知りますよ、こけるだけで。子ども勝手にこけますから、自由にしてたらね、殴られたら痛いと分からないから殴るんでしょう。 こういう理屈あるんですけれども、そういうことじゃない。これはちょっとそういうことなんだなと思っていてもらいたいんですけど、できたらこれを一つ大事にしておいてもらいたいなというのが、 成果とか我慢と居場所を混同しないようにできたらしてあげたい。ちょっとわかりにくいと思いますけど、成果というのはこれをやったらえらいとかそういうこやな成果ね。 我慢っていうのは文句言わない、これが何々をやったらまたは何々を我慢できたら、こうすると親の機嫌がよくなったとします。そうすると機嫌が良いは居場所化するんですね。 とするとその私がこうでないとここにいてはいけないという学習が大きい、これが心理的緊張のベースになっちゃう。 そのことと自分に家という居場所があるということ、これは本来ね、できたら分けたいんです。あなたがどうであるから、何かをしたから、または何かを我慢できるから、ここに居場所があるのだよ。 この条件づけされた心の居場所の考え方はできたらそれを起こしたくないんです。それが怯えのベースになっちゃうから。 そうするとね、小さい頃の家というのはこの世界を見るフィルターそのものなので、ここで学習したことを通じて世界を眺めるんですね。カラーコンタクトですね。 そのように世界が見えるんです。居場所があることそのものは、あなたがどうであるからということに関連しない、これがおすすめなんです。 あなたが存在するそのことがそもそも「それでいい」、まさしく「それでいい」。パパが嫌だって思ったり、それはあるよと。 あなた一人の子どもとして、気持ちとして、もしそれがどうであるか、パパのことが嫌いになったとしてもね、パパっていうやつは、お前を嫌いにならんねん。 ずっと好き、大好き、存在が好き。それをお前がどうだろうと、どう言おうとパパはいてくれる、条件付けされない居場所の安心感というのができたら、子どもに持たせてあげたい。 それが多分この世界への怯えをできるだけ持たずに育つということなんだと思うんですよ。