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崇禅寺

2019年3月5日

ページ番号:61522

東淀川区東中島5丁目27-44
崇禅寺

崇禅寺は天平年間(729~748年)に法相宗の行基によって創建されました。
 約560年前、室町幕府6代将軍足利義教(あしかがよしのり)は嘉吉(かきつ)の乱で赤松満祐(あかまつみつすけ)に暗殺されました。赤松満祐はその後自害することになりますが、義教の首級を携えて播磨へ下る途中に崇禅寺森の観音堂付近にその首を埋めます。翌年、幕府はその地に菩提を弔うため、細川持賢に崇禅寺を再興させました。境内には「細川ガラシヤの墓」「遠城(えんじょう)兄弟の墓」「義教の首塚」、宗派の別を問わずに永代納骨している「夢殿式永代納骨堂」、日本三景の松島を象っている「茶席庭園」があります。

崇禅寺

細川ガラシヤ
 本名は玉、明智光秀の二女として生まれ、聡明で教養深く、16歳の時に細川忠興(ほそかわただおき)と結婚しました。しかし、父光秀の謀反により19歳のときに丹後半島に幽閉され、3年後の22歳のときに秀吉に許されます。ある時、忠興からキリシタン大名高山右近の話を聞き、元来慈悲深かった玉はキリスト教にひどくひかれ、熱心な信者清原マリアの手引きで洗礼を受け、ガラシヤ(恩寵の意)という洗礼名を得ました。忠興は1600年に家康に従って奥州の上杉攻めに参加し、その留守を見計らって石田三成は徳川家への不満分子を誘い関ヶ原の戦いが始まります。三成はまず、玉造の細川家を強襲し、妻子を人質として大坂城に入城するように促しましたが、ガラシヤはそれを堅く拒み、火の付いた屋敷内で37年の生涯を終えました。宣教師オルガンチノは細川屋敷跡からガラシヤや殉死者の遺骨を拾い、細川家にゆかりのある崇禅寺に運びました。
 ガラシヤの墓は無地の五輪塔で「秀林院細川玉子之墓」の石標が建っています。周りには6つの墓石があり、これは殉死者のものといわれています。

崇禅寺馬場の返り討ち
 当時25歳だった生田伝八郎は、17歳の若者ながら武芸に秀でていた遠城宗左衛門重次に剣術の試合を申込み敗れます。伝八郎の生田家は200石、遠城家は80石、生田家は遠城家に遅れをとったと腹を立て、1715年5月14日の早朝、重次を闇討ちして逐電します。これを嘆いた重次の母は腹違いの2人の兄弟を呼び仇討ちを頼みます。兄が弟の敵を討つことはすでに禁止されており、遠城兄弟は脱藩し変名して、生玉神社で仇討ちを祈願します。同年10月26日、兄弟は生玉境内近くで伝八郎とばったり出会い、勝負を求めます。しかし、伝八郎は市中を騒がし神域を汚すのは本意ではないと、明後日の28日、中島の崇禅寺馬場で戦おうと確約します。ところが、伝八郎の策略のためか28日は延期され、11月4日に日を改めます。遠城兄弟は、準備万端抜かりなく崇禅寺松原に乗り込みますが、待ち伏せしていた伝八郎とその加勢に襲われ、奮闘するも及ばず幕を閉じます。その後、伝八郎は仇の方が助太刀を頼んで返り討ちにしたことで世論の風当たりが強く、わずか20日後に割腹します。もう一説には、崇禅寺馬場で遠城兄弟、伝八郎ともに倒れるという伝えがあります。
 [毎年11月4日には、兄弟を忍んで追善法要とお茶会が開催されます。]

(「広報ひがしよどがわ」平成14年5月号・6月号に掲載)

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