報道発表資料 前期難波宮の南限を確認しました ―「朱雀門」の西に延びる塀跡の発見 ―
2018年8月28日
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問合せ先:教育委員会事務局総務部文化財保護課(06-6208-9069)公益財団法人大阪市博物館協会 大阪文化財研究所(06-6943-6833)
平成30年8月28日 14時発表
大阪市教育委員会と公益財団法人大阪市博物館協会大阪文化財研究所は、平成30年5月中旬から7月中旬まで難波宮跡の発掘調査を実施しました(図1)。調査地は、孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮(なにわのながらとよさきのみや)」と考えられている前期難波宮の正門である「朱雀門(すざくもん)」(宮城南門)の約190メートル西にあたります。今回、この「朱雀門」から西へ延びて、宮の南限を画する塀の跡が発見されました。これは当時の宮殿の範囲や規模を知るうえで重要な発見です。出土資料はまだ整理・分析の途中ですが、現時点で明らかになった調査の成果を報告します。
前期難波宮南限の塀を発見
今回の発掘調査は、民間の開発事業用地のうち約330平方メートルを対象に実施しました。後世の攪乱(かくらん)によって遺跡の残りは良くありませんでしたが、調査地の北端付近で難波宮の遺構を確認しました(図2・3)。見つかったのは6個の柱穴で、東西に一直線をなして並んでいました。「朱雀門」の西に取り付く複廊(ふくろう)の中央(棟通り)の柱穴と、その延長上の約295メートル西の地点で発見された塀(平成9年度調査地)の柱穴を結ぶ線上に、これらの柱穴は並んでいます(図1)。このことから、今回発見された柱穴は、「朱雀門」から西へ延びて難波宮の南を画する区画施設の一部とみられます。
柱穴は一辺が約1.1~1.4メートルあります。柱穴3と4、柱穴5と6は重複していて同時には存在せず、それぞれ柱穴4と6が新しい段階に掘られたものです。柱の間隔がほぼ同じと仮定すると、柱穴1・3・5、柱穴2・4・6という組合せとなり、後者が新しい段階です。柱穴の重複や深さを確認するために断面調査を行ったところ、新しい組合せの柱穴が、古いものに比べて約30センチメートル深いことがわかりました(図4)。
今回発見の柱穴のうち、古い組合せの柱穴1・3・5は、「朱雀門」西端から59番目・60番目・61番目の計算上の柱位置にほぼ一致します。これらの柱穴は「朱雀門」から続く区画施設のうち、掘立柱塀の一部とみられます。一方、新しい組合せの柱穴は、塀を部分的に改修したか、塀とは別の構造物を後で付加したときのものである可能性が考えられます。別の構造物としては小規模な門などが考えられ、正門のほかにも通用門のような出入口があったことになります。この考え方のほうが新しい柱穴が深いことを理解しやすくなりますが、遺構が残る範囲が限定的なので、今回は確定できませんでした。
今回の発見の意義
【用語解説】
- 前期難波宮(ぜんきなにわのみや)
孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮(なにわのながらとよさきのみや)」と考えられている。蘇我氏を滅ぼした乙巳(いっし)の変(645年)ののちに飛鳥から難波へ遷都が行われて造営された。その完成は白雉(はくち)3年(652年)と『日本書紀』に記されている。国内最初の本格的な大陸風宮殿で、建物はすべて掘立柱式で瓦を用いない特徴をもつ。朱鳥(しゅちょう)元年(686年)に火災によって主要な部分が焼失した。奈良時代に、聖武天皇によって再建されたものが後期難波宮である。
- 朱雀門(すざくもん)
宮城の外郭南面中央の門で、正門にあたる。「朱雀門」の門号は日本書紀編纂時には使われていたが、それを遡る前期難波宮の時代にこの門号があったかは厳密には明らかではない。
- 複廊(ふくろう)
回廊の一種で、幅(梁行)が柱間2間のものをいう。柱間1間のものは単廊という。一般に、複廊の方が格式が高いとされる。
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