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報道発表資料 「最後の南都仏師」宗印(そういん)の作例が、大阪市内で新たに発見されました

2019年10月23日

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問合せ先:教育委員会事務局 総務部 文化財保護課(06-6208-9069)

令和元年10月23日 17時発表

  大阪市教育委員会は、東住吉区桑津3丁目に所在する浄土宗寺院である見性寺(けんしょうじ)の木造阿弥陀如来坐像の頭部内側に宗印の銘記を発見しました。宗印は、京都の方広寺(ほうこうじ)の大仏を手掛けたことで知られている、安土桃山時代から江戸時代の初期にかけて活躍した仏師です。南都仏師と呼ばれる、奈良を拠点に平安時代末から活躍した仏師の系統に連なり、「最後の南都仏師」とも称されています。残された作例はきわめて少なく、全国的にも非常に貴重な発見です。

(注)この仏像は、一般公開されていません。

見性寺の寺歴

 見性寺は東住吉区桑津の浄土宗寺院で、奈良時代の有名な僧である行基が建立したとも、古代寺院の難波百済寺(なにわくだらでら)の法灯を継ぐとも伝えられ、鎌倉時代には浄土宗の宗祖である法然が滞在した、といわれています。戦乱の中で衰退し、1657年(明暦3年)に再興されました。江戸時代後期には、法然ゆかりの寺院として近畿一円から信仰を集めていました。1881年(明治14年)頃の火災で、本尊をはじめとする仏像などが失われてしまいました。

本尊の木造阿弥陀如来坐像から宗印の銘記を発見

 現在の本尊の木造阿弥陀如来坐像は、火災の後に見性寺に迎えられた像で、もとは羽曳野市の誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)の、明治の神仏分離で廃絶した神宮寺の奥之院にまつられていた、といわれています。

 木造阿弥陀如来坐像は、像高87.1センチメートル、等身大の寄木造像で、眼には水晶などで造った玉眼を嵌入(かんにゅう)し、胸前で両手を掲げる説法印という印相を結んでいます。内部は内刳りされており空洞となっていますが、その頭部の内側に墨書による銘があり、内容から宗印の作であることがわかりました。

 頭部内側の4面に墨書があり、「慶長十一丙午六月十五日宗印」「南都 北室大仏師 宗印 同式部 同良音 同弁蔵」と記されていることから、1606年(慶長11年)に宗印が造像したことがわかります。

 銘記の中には造像の由緒を示す文言が確認できませんが、誉田八幡宮には銘記と同じ1606年(慶長11年)の奥之院の棟札(むなふだ)が伝来しており、この年に奥之院で建物の造作があったこと、そこには「無量寿仏(むりょうじゅぶつ)」がまつられていたことがわかります。阿弥陀如来を「無量寿仏」と表記する場合もあり、棟札に記される像が本像にあたる可能性が考えられます。

「最後の南都仏師」宗印

 宗印は、豊臣秀吉が発願した京都方広寺の大仏を手掛けたことが示すように当代一流の仏師で、南都仏師の伝統をひく最後の仏師ともいわれます。しかし、方広寺の大仏は現存せず、宗印の銘記をもつ作例として確認されているのは、国宝である奈良県桜井市の安倍文殊院(あべもんじゅいん)の住吉明神立像、重要文化財である奈良県吉野町の金峯山寺(きんぷせんじ)の蔵王権現立像など、全国でも7例しかありません。

大阪市域の仏像

 大阪市域は度重なる火災に見舞われていますが、近年になって貴重な仏像が数多く残っていることがわかってきました。これらのうち、すでに重要文化財となっている仏像が11点、大阪府指定文化財となっている仏像が9点、市指定文化財となっている仏像が47点ありますが、この他にも、たくさんの仏像が伝来しています。大阪市教育委員会では、それらの文化財的な価値を把握する調査をすすめるとともに、保存と啓発をすすめています。

用語解説

  • 方広寺: 豊臣秀吉が発願した大仏を安置するために建立された、京都市東山区に寺地を構える寺院。1595年(文禄4年)に大仏殿が完成したが、翌年の地震で倒壊した。「国家安康」の銘のある重要文化財の梵鐘で知られている。
  • 難波百済寺: 百済王氏の氏寺といわれる古代寺院。寺地は不明だが、古瓦が出土する天王寺区堂ヶ芝のあたりに寺地を比定する説がある。
  • 誉田八幡宮: 羽曳野市誉田の誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)のそばに社地を構える、応神天皇を祭神とする神社。明治の神仏分離までは護国寺と称する神宮寺があったが、現在は南大門を残すのみである。神功皇后縁起などの重要文化財を伝えている。

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写真1 見性寺 木造阿弥陀如来坐像


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写真2 頭部内側の墨書銘「南都北室大仏師 宗印・・・」

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