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報道発表資料 大坂七墓のひとつ「梅田墓」の発掘調査で、1,500体を超える埋葬人骨が見つかりました

2020年8月13日

ページ番号:511149

問合せ先:教育委員会事務局総務部文化財保護課(06-6208-9069) 一般財団法人大阪市文化財協会(06-6943-6833)

令和2年8月13日 14時発表

 大阪市教育委員会と一般財団法人大阪市文化財協会は、令和元年9月下旬から北区大深町遺跡の発掘調査を実施してきました。

 今回の調査では、1,500体を超える埋葬人骨が発見されるなど、江戸から明治時代にかけて営まれた「梅田墓(うめだはか)」の具体的なようすを明らかにすることができました。「梅田墓」は、当時流行した「七墓巡り(ななはかめぐり)」に名前が挙げられる代表的な墓地のひとつです。「大坂七墓(おおさかななはか)」は都市大坂の発展のようすや、庶民の信仰などを知るうえで重要な存在でしたが、前回行われた調査に加え、今回の調査で墓地の東半部のほぼ全容が明らかになりました。調査を終えた大半の部分はすでに埋め戻していますが、現在も墓地の西南部を調査中です。人骨を含めて出土した遺物については、現在整理・分析の途中ですが、現時点で明らかになった調査の成果を紹介します。

(注)この発掘調査現場は、一般公開はいたしません。

今回の発掘調査の概要

 今回の発掘調査は、「うめきた」2期区域の西南端において、約2,400平方メートルを対象に実施しました(図1)。2016・2017年度に行われた前回調査の東および北側に当たります(図2・3)。

 発掘調査では、前回の調査で見つかった墓地の北と南を区画する石垣の延長部分に加え、東を区画する石垣が新たに発見され、明治23年(1890年)の地図に示された「梅田墓」の東半部に相当する約1,500平方メートルの範囲のほぼ全容が明らかになりました。墓地内部では1,500体を超える埋葬人骨や350点を超える蔵骨器などが見つかり、墓地の東を画する東側の石垣の外には南北水路があり、その東には水田が広がっていました(図3)。

発掘調査地の位置
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図1 発掘調査地の位置

明治23年(1890年)の地図と調査地
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図2 明治23年(1890年)の地図と調査地

墓地の構成と埋葬のようす

 石垣で囲まれた墓地内部は東西方向の石垣によってさらに南北に区画されていました(図3、写真1)。一段低い墓地北部では屈肢形態で浅い穴に納めたり、土をかけたりしただけの簡単な埋葬が約1メートルの厚さで集積しています。特に最下層では複数体をまとめて埋葬した竪穴(たてあな)がいくつも見つかり(写真2)、流行り病などで一度に亡くなった人をまとめて埋葬したものと考えられます。

 盛土で一段高くなった墓地南部の中央には東西11.6メートル、南北7.8メートルの大型の礎石建物跡がありました(写真3)。建物の礎石は一辺約0.7メートルの方形の切石を4段程積んだ堅固なもので、周囲に幅約3メートル、深さ約1メートルの溝を掘って礎石を据えた後、火葬の際に生じた焼骨が混じる炭・灰を多く含む土(骨灰土)で埋め戻していました。構造から倉庫、例えば納骨堂のような施設の可能性があります。建物跡の南北両側には桶(おけ)や方形木棺、甕棺(かめかん)を用いた座棺埋葬が密集して見つかりました(写真4)。墓の副葬品には数珠玉、六文銭、簪(かんざし)、櫛(くし)、キセル、酒盃(しゅはい)のほか、多様な土人形などがあり、二朱金が副葬された墓もありました。

 墓地内では人以外に動物も埋葬されており、墓地北部では4体以上の子豚、南部では2体の馬の埋葬があります。蔵骨器に容れられた猫の骨も見つかっています。

 このほか、墓地内では土葬埋葬とともに土製や陶製の蔵骨器も埋納されており、墓地造成の盛土に先行して大きな竪穴を掘って火葬の際に生じた骨灰土を埋めており、そこにも多量の蔵骨器を廃棄していました(写真5)。こうした穴から位牌(いはい)も出土しています(写真6)。


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図3 見つかった墓地

墓地の全景(北から)
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写真1 墓地の全景(北から)

墓地北部のようす(北東から)
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写真2 墓地北部のようす(北東から)

墓地南部で見つかった礎石建物跡(東から)
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写真3 墓地南部で見つかった礎石建物跡(東から)

墓地南部のようす(東から)
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写真4 墓地南部のようす(東から)

墓地の盛土下で見つかった骨灰土を埋めた穴に捨てられた蔵骨器
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写真5 墓地の盛土下で見つかった骨灰土を埋めた穴に捨てられた蔵骨器

骨灰土を埋めた穴から見つかった位牌
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写真6 骨灰土を埋めた穴から見つかった位牌

墓地の年代

 前回および今回の調査成果から、見つかった墓地は19世紀、江戸時代でも終わりに近い頃から明治20年代までの間に営まれたものと考えられます。梅田墓は成立時の地点から移転していると考えられ、また、拡張も行われており、他所にあった初期の梅田墓のものとみられる元禄(げんろく)年間(1688年~1704年)の銘がある墓石が墓地の石垣に転用して用いられていました。

埋葬された人々

 ここに埋葬された人々は大坂城下町とその周辺に居住していた一般庶民であったと考えられます。前回の調査で出土した人骨の分析から、平均30歳代と多くが若くして亡くなっており、子供の埋葬も多く認められました。また、四肢を中心に病変が認められる個体が多いことも判明しています。今回出土した人骨も、今後分析を行っていく予定です。

調査成果の意義

 「大坂七墓」のひとつである「梅田墓」の発掘調査で、1,500体を超える埋葬人骨を確認し、墓地の具体的なようすを明らかにすることができました。また、市内でこれほど一度に多くの埋葬の跡が見つかったのは初めてのことで、今後、出土遺物や人骨の整理・分析が進めば、当時の葬送のようすや埋葬された人々の生活環境をより具体的に明らかにすることができ、歴史記録には残らない都市大坂を支えた市井の人々の暮らしや歴史に光を当てることが期待できます。

【用語解説】
大坂七墓(おおさかななはか)

 江戸~明治時代初期に、大坂の町の周辺にあった7箇所の墓地(梅田、南浜蒲生(がもう)、千日、飛田など、時期によって入れ替わりあり)のことで、現在も継承されているのは、南浜、蒲生の2箇所のみである。江戸時代、諸霊供養のため、陰暦7月16日の宵から翌日の夜明けにかけて、7箇所の墓を参拝する「七墓巡り」が庶民の間で流行した。

梅田墓(うめだはか)

 江戸時代初期、天満周辺に散在していた墓所を、曽根崎村(現在の大阪駅前第一ビル付近と推定されている)に分割移転させたのがその始まりで、その後、現在の「うめきた」南西部に貞享年間(1684年~1688年)に再移転されたと考えられている。「大坂七墓」のひとつとしてよく知られ、近松門左衛門の「曽根崎心中」や「心中天網島」などの文学作品にも取り上げられている。明治20年(1897年)頃に有縁の墓石は各所に移転されており、今回見つかったものはその後に残された無縁の墓と考えられる。

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