ページの先頭です
  • トップページ
  • 報道発表資料
  • 報道発表資料 地下に眠っていた秀吉の大坂城石垣を発掘しました ~ 発掘調査の現場を一般公開します ~

報道発表資料 地下に眠っていた秀吉の大坂城石垣を発掘しました ~ 発掘調査の現場を一般公開します ~

2021年1月27日

ページ番号:525851

問合せ先:教育委員会事務局総務部文化財保護課(06-6208-9069) 経済戦略局観光部集客拠点担当(06-6469-5154) 一般財団法人大阪市文化財協会(06-6943-6833)

令和3年1月27日 14時発表

 大阪市教育委員会・大阪市経済戦略局と一般財団法人大阪市文化財協会は、令和2年3月から実施してきた特別史跡大坂城跡の発掘調査の成果を市民に紹介するため、令和3年2月19日(金曜日)より21日(日曜日)までの3日間、発掘調査の現場を一般公開します(定員有り、事前申込み制)。

 今回の発掘調査は、昭和59年(1984年)に発見された豊臣期大坂城の詰ノ丸石垣を公開する展示施設の開設のために実施しています。豊臣秀吉が築いた大坂城は、大坂夏ノ陣ののち徳川幕府による大坂城再築の際、完全に地中に埋められました。平成25年度にはこの石垣の状況を確認するため、一部再発掘して一般公開を行いましたが、今回はこれまで未発掘の部分を含めて、展示施設にかかる予定範囲内の石垣を全て発掘しました。

(注)新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の影響により、公開内容が変更または中止となる場合があります。

現地公開の開催について

1.日時

令和3年2月19日(金曜日)~21日(日曜日)10時~16時

(注)小雨決行(開催時間までに大阪府下に暴風または大雨警報が発令された場合は中止とします。)
2.場所

大坂城跡発掘現場 (大阪市中央区 大阪城公園内天守閣南東、金蔵の東側)

  • Osaka Metro谷町線 天満橋駅から南東へ約700メートル
  • Osaka Metro長堀鶴見緑地線 大阪ビジネスパーク駅から南西へ約500メートル
  • JR大阪環状線 大阪城公園駅から西へ約500メートル
3.内容
石垣遺構の公開および説明資料の配布
4.公開方法

 各日の10時台、11時台、12時台、13時台、14時台、15時台につき、1グループ8名ずつの入替え制で実施します(1時間ごとに6グループ計48名)。

 参加をご希望の方は下記のホームページからお申込みください。希望者多数の場合は抽選とさせていただきます。

大阪市生涯学習情報提供システム「いちょうネット」
(https://www.manabi.city.osaka.lg.jp/yoyaku/KozaEventCategorySearch.html?janru=13別ウィンドウで開く

 また、2月19日(金曜日)10時から今回発掘した石垣の画像を下記ホームページで公開しますので、こちらもご覧ください。

豊臣石垣公開プロジェクトホームページ
https://www.toyotomi-ishigaki.com/info/別ウィンドウで開く

5.問合せ

一般財団法人大阪市文化財協会

担当:清水 電話番号:080-8949-3465

調査の概要

 調査地は、特別史跡大坂城跡の本丸東部にあります(図1)。この地域は、豊臣期には天守や奥御殿など豊臣家の私的空間であった詰ノ丸の東南出角部と、そこから一段低くなった中ノ段にあたります(図1~4)。また、徳川期においては天守台の南東約100メートルに位置しています。

 今回の発掘調査は、昭和59年(1984年)に発見された豊臣期詰ノ丸の石垣を再発掘して公開する豊臣石垣公開プロジェクトに伴うもので、公開予定の石垣全体を発掘調査するために昨年3月から実施しています。

 当地では、昭和59年度の石垣発見に始まり、平成25年(2013年)からは同プロジェクトにより公開展示施設の建設に向けて調査を重ねてきましたが、今回が最後の発掘調査となる予定です。調査の終了後は、石垣に必要な保存処理を施したのち、いよいよ公開施設の建設工事が開始されます。

豊臣石垣公開プロジェクト
 大阪市では、特別史跡大坂城跡の特徴である歴史の重層性を象徴する遺構のひとつとして、豊臣期大坂城の詰ノ丸石垣を露出公開展示し、実物の遺構をご覧いただくことで大阪城の歴史文化を体感できる施設の建設を計画しています。

 今回発掘された石垣の状況を踏まえ、石垣に必要な保存処理および現場の安全対策の追加が必要になったことから、これまで令和4年春をめざしていた施設の開館時期を令和5年春に見直します。

https://www.toyotomi-ishigaki.com/index.html別ウィンドウで開く

調査の成果

 今回の調査では、豊臣期と徳川期の2時期について新たな発見がありました。

1.豊臣期

 詰ノ丸東南出角部の石垣の形状や規模、中ノ段の地表面について、より正確に知ることができました。

 調査した石垣の範囲は基底長で東面7.7メートル、南面6.9メートル、また、石垣の高さは最も残りのよい部分で5.9メートルでした(写真1・2)。東面と南面の合わさる隅角部は約108度とやや開いています(図2)。東面・南面ともに石垣の勾配は約65度でした。石垣の石材は大きな築石(つきいし)と小さな間詰石(まづめいし)で構成されており、大きな築石は1.0~1.5メートル程です。使用されている石材は花崗岩(かこうがん)が主で、一部に閃緑岩や凝灰岩、砂岩なども用いられています。石には高熱を受けた痕跡がみとめられるものもあり、大坂夏ノ陣(慶長20年・1615年)で焼けたのでしょう。南面はこれまで出角部しか検出されていませんでしたが、今回の調査では新たに基底部で約5メートル分を発掘しました。東面と同様に野面積み(のづらづみ)を基本とするものの、南面では東面に比べて比較的大きな石が多く使われていることが明らかになり、やや積み方がことなることがわかりました。南面は詰ノ丸の入口である黒鉄門(くろがねもん)に至るルート側に面していることから、意図的に大きな石を配した可能性があります。石を割る際にできた矢穴は、これまで東面で1点確認されていましたが、南面で新たに2点を確認しました。また、間詰石に転用された宝篋印塔(ほうきょういんとう)の台座片1点を新たに確認しました。

 中ノ段の地表面は調査区西壁に接する部分が高く、南東側へ緩やかに傾斜していました。西側が高いのは中ノ段から詰ノ丸黒鉄門へ至る当時の主通路に近いからでしょう。
2.徳川期

 大坂夏ノ陣より後の盛土について新たな知見がありました。夏ノ陣で被災した大坂城の地表面は、徳川方が焼け跡を片付けてならした厚さ数センチメートルの整地層で覆われています(図5・写真3)。焼土や焼けた瓦が多く含まれ、焼土層と呼ばれています。焼土層の上には大量の瓦片・割れ石が含まれた数センチメートル~10数センチメートルの固い整地層があり、調査区内に広がっていました(写真4・5)。これを覆う厚さ6メートル以上の盛土層は徳川期大坂城再築工事の第2期にあたる本丸普請工事(元和10年(1624年)~寛永4年(1627年))で一気に盛り上げられた整地層で、瓦片・割れ石を含む固い地層はその沈降を防ぐためと考えられます。

 この分厚い盛土層は、昭和59年度(1984年度)の調査でも複数の段階に分かれていたことが明らかになっていました。今回の調査でも厚さ数メートル単位でいくつかに分かれ、土嚢(どのう)や石を積んで強固にしたり、石を積んで土留の壁とした箇所があることが明らかになりました(写真6)。

 一括盛土層の出土遺物はほとんどが瓦類の破片で、わずかに陶磁器類のほか輸入銭も出土しました。

 瓦は大坂夏ノ陣で被災したとみられる赤茶色の破片や(写真8)、少量ながら金箔押瓦も出土しており、ほとんどが豊臣期大坂城で使用されていたものと考えられます。そのほか、備前焼や中国産青花磁器なども豊臣期の後半頃のものでしょう(写真7)。

用語解説

大坂城跡(大阪城)

 大坂城跡は、大阪市を南北に延びる上町台地の北端にあり、市内で最も標高の高い場所に位置する。約74ヘクタールが国の特別史跡に指定(昭和30年6月24日付)され、江戸時代の石垣や堀、櫓・門といった建造物を見ることができるほか、昭和6年(1931年)に復興された天守があり、博物館(大阪城天守閣)として活用されている。特別史跡は、昭和25年(1950年)に制定された文化財保護法によって指定される史跡のうち、「特に学術上の価値が高く、日本文化の象徴たるもの」と定義され、国内で63件、近世城郭としては姫路城、江戸城、名古屋城などが指定されている。なお、豊臣~徳川期は「大坂城」、明治時代以降は「大阪城」と表記することが学術的には一般であり、ここでもその標記に従う。

豊臣期
 天正11年(1583年)に豊臣秀吉によって築造が始められた。北を淀川、西を東横堀川、東を猫間川、南を空堀に囲まれた広大な惣構を設け、その中に三ノ丸・二ノ丸・本丸が造成される堅固な構造を備えていた。このうち本丸は、詰ノ丸・中ノ段・下ノ段などで構成される。しかし、慶長19年~20年(1614年~1615年)の大坂ノ陣で徳川幕府軍に攻められて落城し、その後、厚さ数~10数メートルに及ぶ盛り土によって、豊臣期の大坂城は地中深くに埋められた。徳川期大坂城の地下に豊臣期の大坂城が眠ることは、昭和34年(1959年)の大坂城総合学術調査団による発掘調査で、地下約7メートルの深さから石垣が発見されて明らかとなった。
徳川期
 徳川幕府は元和5年(1619年)に大坂を幕府直轄とし、元和6年(1620年)から3期にわたる大坂城再築工事を行った。主に西国・北国の諸大名を動員して工事を分担させ、第1期工事(1620年~1623年)は西・北・東外堀内外を対象とし、第2期工事(1624年~1627年)は内堀から内側の本丸普請、天守や本丸御殿の作事など、第3期工事(1628年~1630年)で南外堀内外を完成させた。天守は寛文5年(1665年)に落雷により焼失した。戊辰戦争に際しては、慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いで敗走した幕府軍が大坂城に逃げ込み、新政府軍との引き渡し交渉の最中に城内から出火し、多くの建造物が焼失した。
明治時代以降
 明治時代になると、大阪城は陸軍の軍用地として整備され、一般市民の自由な出入りは禁止された。その後、昭和6年(1931年)に市民の寄付によって陸軍第四師団司令部庁舎(現ミライザ大阪城、もと大阪市立博物館)の建設と天守閣の復興とが進められ、この時、本丸地区から大手前地区にかけての9.6ヘクタールが「大阪城公園」として整備され、一般市民の立ち入りが可能となった。その後、昭和20年(1945年)の大阪大空襲では戊辰戦争時に被害を免れた多くの建造物が焼失したが、復興天守閣は被害を免れた。終戦後、占領軍による接収を経て、昭和28年(1953年)頃から大阪城の補修事業が進められ、金蔵・櫓・石垣などが復元・修理されている。
大阪城全図・調査地位置図
別ウィンドウで開く

図1 大阪城全図・調査地位置図

調査区と豊臣期石垣の位置
別ウィンドウで開く

図2 調査区と豊臣期石垣の位置

豊臣期・徳川期大坂城の本丸平面比較
別ウィンドウで開く

図3 豊臣期・徳川期大坂城の本丸平面比較(黒:豊臣期大坂城・青:徳川期大坂城)
宮上茂隆、「比較検証[本丸]豊臣・徳川大坂城」(『歴史群像名城シリーズ1』学習研究社1994年)から改変

豊臣期・徳川期大坂城の断面比較
別ウィンドウで開く

図4 豊臣期・徳川期大坂城の断面比較
宮上茂隆、「比較検証[本丸]豊臣・徳川大坂城」(『歴史群像名城シリーズ1』学習研究社1994年)から改変

調査区の層序
別ウィンドウで開く

図5 調査区の層序

豊臣期石垣東面(東から)
別ウィンドウで開く

写真1 豊臣期石垣東面(東から)

豊臣期石垣南面(南から)
別ウィンドウで開く

写真2 豊臣期石垣南面(南から)

大坂夏ノ陣後の片付けでできた焼土層
別ウィンドウで開く

写真3 大坂夏ノ陣後の片付けでできた焼土層

豊臣期石垣と瓦片・割れ石を多量に含む整地層(南東から)
別ウィンドウで開く

写真4 豊臣期石垣と瓦片・割れ石を多量に含む整地層(南東から)

瓦片・割れ石を多量に含む整地層(南西から)
別ウィンドウで開く

写真5 瓦片・割れ石を多量に含む整地層(南西から)

土留遺構1(南東から)
別ウィンドウで開く

写真6 土留遺構1(南東から)

出土遺物(徳川期一括盛土から出土した軒丸瓦・軒平瓦・備前焼・中国産青花磁器)
別ウィンドウで開く

写真7 出土遺物(徳川期一括盛土から出土した軒丸瓦・軒平瓦・備前焼・中国産青花磁器)

出土遺物(大坂夏ノ陣で焼けた丸瓦・平瓦)
別ウィンドウで開く

写真8 出土遺物(大坂夏ノ陣で焼けた丸瓦・平瓦)

探している情報が見つからない

  • トップページ
  • 報道発表資料
  • 報道発表資料 地下に眠っていた秀吉の大坂城石垣を発掘しました ~ 発掘調査の現場を一般公開します ~