ページの先頭です

報道発表資料 新たに大阪市指定有形文化財及び有形民俗文化財を指定しました

2021年3月26日

ページ番号:530596

本件については、令和3年5月19日14時に一部訂正しております。

別途訂正発表をご参照ください。

問合せ先:教育委員会事務局総務部文化財保護課(06‐6208-9168)

令和3年3月26日 14時発表

 大阪市教育委員会では、大阪市文化財保護条例に基づき、市内に所在する19件の文化財について、令和3年3月26日(金曜日)付けで、大阪市指定有形文化財及び有形民俗文化財として指定しました。

 本市では、市内に所在する文化財で国や大阪府が指定していないもののうち、本市の歴史や文化を理解するうえで欠かすことのできない重要なものについて、その保存及び活用により市民の文化の向上及び発展に寄与することを目的として、平成11年度から大阪市指定文化財を指定しています。

 今回は、大念佛寺本堂ほか16件を有形文化財として、また、住吉大社神宮寺関係史料ほか1件を有形民俗文化財として、合計19件の文化財を指定しました。

 これらの文化財は一般には公開されておりません。(大念佛寺の建造物の外観は見ることはできます。)

 新指定分を加えた大阪市の指定文化財の総数は、合計269件となります。

(これまでに指定した大阪市指定文化財については、大阪市指定文化財分類一覧表でご覧いただけます。)

 

新たに指定した大阪市指定文化財19件の内訳(〔恰好(かっこ)内〕は所有者・管理責任者)

大阪市指定有形文化財17件、有形民俗文化財2件
建造物 3件

大念佛寺本堂(だいねんぶつじほんどう)〔宗教法人 大念佛寺(平野区平野上町1丁目7番26号)〕1棟

概要:大念佛寺は融通念仏宗の総本山である。江戸時代初期の元和元年(1615年)、現在地に寺地を定め、伽藍(がらん)が整えられた。元禄年間(1688年~1704年)の第46世大通上人の時代に伽藍が再整備され、境内に多くの堂宇が建設された。
 現本堂は境内のほぼ中央に東向きに建つ。正面桁行7間、梁間(はりま)9間で、正面に3間の向拝を付ける。昭和13年の竣工であり、木造建築としては大阪府内で最大の規模である。堂内は中柱を少なくした大空間が構成されている。蟇股(かえるまた)を多用し、根肘木や柱上組物の実肘木を繰型付きとし、虹梁(こうりょう)の成を低くするなど、広大な空間を簡潔に、また格調高くまとめた意匠がなされている。
 基礎はコンクリート製の連続フーチングが用いられたり、屋根の庇(ひさし)部分にトラスが用いられるなど、大規模な木造建築を支えるために西洋の近代工法が用いられている。伝統建築の技法に近代建築の技術が融合した近代和風建築として貴重である。


大念佛寺 本堂

大念佛寺経蔵(だいねんぶつじきょうぞう)〔宗教法人 大念佛寺(平野区平野上町1丁目7番26号)〕1棟

概要:大念佛寺の経蔵は元文2年(1737年)頃に竣工した建物である。壮大な山門を入ってすぐの北側、本堂の東側正面に南面して建つ。方3間、宝形造、本瓦葺き(ほんがわらぶき)で露盤、宝珠をあげる。土蔵造りで、柱、貫、長押、垂木などの構造材の形を現したままで、軒裏までを塗込めとする。各面ともに中央間を広く取り、南面には花頭窓型の出入口を設け、出入口の上部には龍のレリーフを飾る。側面(東、西面)には大型の花頭窓を設け、正面の出入口とデザインをそろえている。内部には装飾性豊かな八角輪蔵を置く。
 大念佛寺経蔵の建築は近世経蔵の特徴をよく示したもので、華やかさのなかに境内景観を荘厳化する建築として貴重である。


大念佛寺 経蔵

大念佛寺南門(だいねんぶつじなんもん)〔宗教法人 大念佛寺(平野区平野上町1丁目7番26号)〕1棟

概要:大念佛寺の南門は山門の南側、境内地の南東部に建つ。間口1間の薬医門で、切妻屋根、本瓦葺である。親柱上で男梁(おばり)と女梁(めばり)で冠木を挟み、控柱間は頭貫型虹梁で繋(つな)ぎ木鼻を付ける。妻飾りは蓑束(みのつか)で、軒は二軒疎垂木である。
 細部に江戸時代初期の様式が用いられており、大念佛寺境内における最も古い建築である。また市域には、江戸時代初期の薬医門の事例は他に、大阪市指定文化財となっている住吉区荘厳浄土寺(住吉区帝塚山東)山門の一例しかなく、希少な建築である。


大念佛寺 南門

美術工芸品(彫刻)5件

木造阿弥陀如来坐像(もくぞうあみだにょらいざぞう)1軀(く)(附2点)〔宗教法人見性寺(東住吉区桑津3丁目4番9号)〕

概要:桑津の旧集落に寺地を構える浄土宗寺院見性寺の本尊像で、説法印を胸前で結ぶ等身大の坐像である。頭部の内側に銘記があり、桃山時代を代表する南都仏師の宗印が、慶長11年(1606年)に制作したことがわかる。大阪市域で桃山時代の銘記を有する像は少なく、また、宗印の作例は全国的にも10例ほどしかないため、希少な像である。


木造阿弥陀如来坐像(見性寺)

木造阿弥陀如来坐像(もくぞうあみだにょらいざぞう)〔宗教法人宝樹寺(天王寺区城南寺町7番10号)〕1軀(く)

概要:大坂城築城の際の都市整備により営まれた、中央区から天王寺区一帯に広がる寺町街区には、現在も200あまりの寺院が軒を並べている。この寺町の位置は、中世以降、日想観に適した場所として浄土教の信者から篤い信仰を集めていた上町台地上と重なる。現在の寺町寺院のうち、約8割が浄土教と関連する浄土宗寺院であり、平安時代から江戸時代にかけて制作された阿弥陀如来像が、先の戦災をまぬがれ、相応の数伝来している。本像はそのひとつである。一木割矧造(いちぼくわりはぎづくり)の彫眼像で、割り首をせず前後に材を割り矧(は)ぎ、両体側を含めて根幹材から彫出する。穏やかで上品な衣文の彫り口だが、部分的に翻波式の名残を思わせる表現もみられ、頭部や体軀(たいく)には量感もある。制作年代は平安時代、11世紀代とみられ、市域に伝来する希少な平安彫刻である。


木造阿弥陀如来坐像(宝樹寺)

木造阿弥陀如来坐像(もくぞうあみだにょらいざぞう)〔宗教法人九応寺(天王寺区生玉寺町7番32号)〕1軀(く)

概要:上町台地の寺町の浄土宗寺院に伝来する阿弥陀如来像のひとつで、等身大の彫眼像である。構造は一木割矧造(いとぼくわりはぎづくり)で、割り首する。衣文の彫り口は浅く、高い肉髻(にくけい)、細かい粒の螺髪(らほつ)は、平安時代後期の作風を呈しているが、膝前の張りが大きいことや、体軀(たいく)の奥行が深いことなどは、鎌倉時代の新しい潮流の影響と思われる。制作年代は、12世紀後半とみられる。平安時代末から鎌倉時代初期に制作がさかのぼる、市域に残る希少な作例である。また江戸時代には、京仏師の系譜に連なる田中主水と、奈良仏師の系統とみられる椿井民部(つばいみんぶ)という、大坂仏師を代表する2者が、本像の修復に携わったことが寺の記録に残っている。


木造阿弥陀如来坐像(九応寺)

木造阿弥陀如来坐像(もくぞうあみだにょらいざぞう)〔宗教法人西照寺(天王寺区下寺町2丁目2番45号)〕1軀(く)

概要:上町台地の寺町の浄土宗寺院に伝来する阿弥陀如来像のひとつである。玉眼嵌入(ぎょくがんかんにゅう)の像で、頭部は前後に材を割り矧(は)ぐ。体部は寄木造である。頭部の奥行は深く量感があり、頭部背面の隙間からの観察によれば、玉眼裏の横板や楔(くさび)などの部材は、本体とは質感が異なっている。体部は頭部に比べるとやや小作りで、体奥も浅い。頭部のみ制作年代が古く、玉眼の嵌入(かんにゅう)と体部は、江戸時代の後補とみられる。頭部の制作年代は、平安時代の11世紀後半にさかのぼり、市域に残る希少な平安彫刻の作例のひとつである。


木造阿弥陀如来坐像(西照寺)

三津寺仏像群(みつでらぶつぞうぐん)〔宗教法人三津寺(中央区心斎橋筋2丁目7番12号)〕1括(11点)追加指定

概要:江戸時代、大坂の市中で有数の真言の密教寺院である三津寺には、多数の仏像が伝来しており、本堂安置の像12点についてはすでに大阪市指定の有形文化財となっている。調査の進捗により、本堂の厨子(ずし)内に秘されていた像や、境内の前堂の像についてもその状況が判明し、銘記から生玉宮寺の一坊であった持宝院旧蔵であることがわかる仏像や、神仏習合の信仰の影響を強く示す鎮宅霊符像や三宝荒神像などを確認することができた。指定済の仏像群を補完する貴重な史料である。


三津寺仏像群(愛染明王坐像)

美術工芸品(絵画)2件

三津寺仏画群(みつでらぶつがぐん)〔宗教法人三津寺(中央区心斎橋筋2丁目7番12号)〕1括(63点)

概要:三津寺は、先の戦災による被害をまぬがれたため、伝来していた仏画が群として残っている。大阪市域で、群として仏画が伝来すること自体めずらしいが、この仏画群は、3分の1をこえる23点が、江戸時代中期に寺の什物(じゅうもつ)として、系統的に制作されたことが特色となっている。信者からの寄進によって集積した仏画も多いが、その中には、市域では希少な、中世にさかのぼる画像も数点含まれている。


三津寺仏画群(阿弥陀三尊画像)

杭全神社神宮寺仏画群(くまたじんじゃじんぐうじぶつがぐん)〔宗教法人 杭全神社(平野区平野宮町2丁目1番67号)〕一括(13点附11点)

概要:杭全神社は、中世自治都市としてしられる平野における信仰の拠点であり、その宮座は、集落の中核となる役割を果たしていた。神仏分離までは、権現寺と称される真言系密教寺院の神宮寺でもあった。神宮寺の什物は、神仏分離後散逸することが通例だが、杭全神社の場合、仏画については相応の量が神社に残っている。その中には、聖徳太子絵伝など、中世にさかのぼる画像も複数含まれるほか、浄土教の念仏道場でもあったため、その信仰を示す画像も残っている。また、神社の祭神である牛頭天王・熊野権現の画像や、祭神の画像と対になる本地仏の彫像などもあわせて伝来しており、失われた神宮寺を考える貴重な史料である。


杭全神社神宮寺仏画群(文殊五尊画像)

歴史資料7件

田中主水家仏師関係史料(たなかもんどけぶっしかんけいしりょう)〔宗教法人 法音寺(天王寺区生玉町6番12号)〕一括16点

概要:江戸時代の大坂には、京都や奈良から移住してきたとみられるたくさんの仏師が工房を構え、活発に造仏活動を行っていた。全国的にもその作例は多く残っているとみられるが、不明な部分も多い。この大坂仏師の中で、四天王寺の仏師職を務めていた田中主水家は、最もよく知られた仏師のひとりである。京仏師の七条左京家から別れ、17世紀末には大坂に移り、心斎橋筋などに工房があった。史料は菩提寺(ぼだいじ)の法音寺に納められている。四天王寺仏師職の補任に関する文書や、仏師系図など、大坂仏師について考えるうえでの重要な史料である。


田中主水家仏師関係史料(許状)

圓光寺真宗関係史料(えんこうじしんしゅうかんけいしりょう)〔宗教法人 圓光寺(天王寺区玉造本町13番5号)〕一括28点

概要:圓光寺は本願寺派の真宗寺院で、近世の大坂市中における有数の寺院のひとつである。本願寺8世門主蓮如(れんにょ)に帰依した念仏行者浄空の道場を、蓮如の門弟円誓が附属されたことが端緒と伝える。江戸時代には船場唐物町に寺地をおいた。近代に天王寺区玉造に移転し、現在に至っている。明応7年(1498年)に蓮如が円誓に下付した寿像をはじめとする18点が、既に歴史資料として大阪市指定文化財の指定を受けている。その後の調査の進捗で、蓮如証判の文明9年(1477年)の法名書や、歴代住持の画像などを新たに確認することができた。指定済みの史料を補完する文化財である。


圓光寺真宗関係史料(歴代連座銘)

光永寺真宗関係史料(こうえいじしんしゅうかんけいしりょう)〔宗教法人 光永寺(平野区平野本町1丁目5番13号)〕一括40点

概要:光永寺は本願寺派の真宗寺院で、中世自治都市であった平野に寺地を占める。本願寺10世門主証如による『天文日記』には、平野衆と称される門徒集団を率いる寺院として、光永寺の名がしばしば登場し、平野とその周辺地域における本願寺教団の重要な拠点であったことがうかがえる。伝来する史料10点が、美術工芸品として既に大阪市指定となっているが、その後の調査で、この他にも、16世紀代から近代に至る真宗関係史料が、多数伝来していることが判明した。代々の歴代門主の画像や、京都にあった光永寺の出寺に関連する史料も含まれており、光永寺や平野の歴史を考えるうえで貴重な文化財である。


光永寺真宗関係史料(六字名号)

本遇寺真宗関係史料(ほんぐうじしんしゅうかんけいしりょう)〔宗教法人 本遇寺(福島区福島3丁目7番38号)〕一括6点

概要:本遇寺は大谷派の真宗寺院で、長享3年(1489年)の方便方身阿弥陀如来画像を伝えている。本遇寺が寺地を構える福島の地に、蓮如の時代に門徒集団が形成されていたことを示す一次史料であり、画像本尊と裏書、附属する文書2点の合計4点が、既に美術工芸品として大阪市指定文化財となっている。その後、調査の進捗により、中世にさかのぼる墨書による大幅の十字名号や、近畿地方では非常にめずらしい4幅の蓮如絵伝などが確認された。すでに指定した画像を補完する貴重な文化財である。


本遇寺真宗関係史料(蓮如絵伝)

瑞興寺真宗関係史料(ずいこうじしんしゅうかんけいしりょう)〔宗教法人 瑞興寺(平野区平野市町3丁目4番17号)〕一括13点

概要:瑞興寺は、中世自治都市として知られる平野郷内の平野市町に寺地をおく大谷派の真宗寺院である。平野は、16世紀代前半には本願寺教団の教化の拠点となっており、平野衆と称される門徒集団が形成されていた。都市化した平野の地には、光永寺を中心として、町衆である門徒が帰属する複数の真宗の寺院や道場が存在していたと考えられる。瑞興寺は、天文年間(1532年~1555年)に明願が建立したとも、慶長6年(1601年)に信慶が建立したともいわれる。中世史料をはじめ、大坂夏の陣直後の免物を含む、江戸時代の真宗関係史料を数多く伝えている。瑞興寺と平野の歴史を考えるうえでの貴重な文化財である。


瑞興寺真宗関係史料(蓮如画像)

民有地図(みんゆうちず)〔大阪市(建設局・大阪市立図書館〕一括(建設局647点、大阪市立中央図書館75点)

概要:江戸時代の大坂市中の地割を示す史料としては、既に大阪市指定文化財となっている水帳があげられる。これに対し、近代初頭の史料としては、最も古い情報を伝えていると考えられるのが、民有地図と称される史料である。明治9年(1876年)の市街地租改正に伴う測量の成果を反映し、明治12年(1879年)まで続いたの大区・小区制の表記を伴うため、原図の作成はおおむねその時期であり、現存する地図そのものの作製年代も、19世紀末までは下らないとみられる。合計3部作られたとみられ、建設局の史料は、旧大阪市域である東区・南区・西区・北区とその周縁地域の地図が一括となっている。中央図書館の史料は、南区の地図であり、建設局の地図と重なる。近代の大阪を考えるうえでの貴重な史料である。


民有地図

大阪市の市電関係橋梁図面(おおさかしのしでんかんけいきょうりょうずめん)〔大阪市(教育委員会)〕一括(原図854点、青図450点)

概要:市電事業に伴って架けられた橋梁(きょうりょう)は、明治末期から昭和初期にかけて建設されてきた。現存するものは本町橋のみで、あとは難波橋に外観意匠が残されるのみであるが、残された図面から、当時の建設計画、設計の方法や意図、建設材料を知ることができる。図面は旧大阪市交通局の前身である電気局(電気鉄道部)等が作成したもので、原図854枚と青図450点が残る。原図には第1期線から期外線に至るまで約70橋分の図面が、青図には51橋分があり、青図にしかないもの6橋分・57点が存在する。これらの図面は本市の近代化の歩みを物語るとともに、時代を経て連続的に建設されてきたことで国内橋梁技術の発展過程を読み取ることのできる重要な歴史資料であるといえる。


別ウィンドウで開く

市電橋梁図面 橋梁原図

有形民俗文化財2件

住吉大社神宮寺関係史料(すみよしたいしゃじんぐうじかんけいしりょう)〔宗教法人 地蔵寺(住吉区墨江1丁目6番7号)〕一括8点

概要:住吉大社の神宮寺は、境内に寺地のあった新羅寺や津守氏の氏寺ともされる津守寺など複数存在した。現存する神宮寺の史料は数少ないが、地蔵寺には、版木を中心とした神宮寺関係史料が伝来している。神仏分離後、新羅寺と津守寺は廃寺となったが、その什物の一部が、地蔵寺が同じ天台宗の寺院だったこともあってか、流入したのではないかと考えられる。版木は、新羅寺の信仰の中核となっていた五大力菩薩(ぼさつ)に関連する3枚で、この他に、五大力菩薩の彫像・神体・標石、津守寺の版木も伝来している。失われた神宮寺の信仰に関係する希少な史料である。


住吉大社神宮寺関係史料(五大尊版木)

伝豊国大明神坐像(でんとよくにだいみょうじんざぞう)〔宗教法人 大宮神社(旭区大宮3丁目1番37号)〕1軀(く)

概要:大宮神社は、大宮八幡宮(おおみやはちまんぐう)とも称される、旭区大宮に社地を構える神社である。源義経ゆかりと伝える古い由緒を有し、江戸時代には大坂城の鬼門守護の神社として信仰されていたという。本像は、等身大の男神像であり、八幡神の随神の高良明神をまつる、境内の摂社高良社の社殿の中に、秘されてまつられていた。等身大、寄木造の彫眼像で、神格化した秀吉が復権した近代には、秀吉像として信仰を集めていた。制作は江戸時代で、銘記はないが、当初から秀吉像として造立され、信仰されていた可能性もある。秀吉像とすれば、全国で20数例と限れられる像のうちで、最大の像高を有している。近代の大阪は、秀吉の復権に伴い、神格化された秀吉が篤く信仰されていたが、その信仰を物語る史料は希少であり、重要な彫像である。


伝豊国大明神坐像(大宮神社)

探している情報が見つからない