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報道発表資料 新たに大阪市指定有形文化財及び有形民俗文化財を指定しました

2022年5月27日

ページ番号:566912

問合せ先:教育委員会事務局総務部文化財保護課(06‐6208-9168)

令和4年5月27日 14時発表

 大阪市教育委員会では、大阪市文化財保護条例に基づき、市内に所在する18件の文化財について、令和4年5月27日(金曜日)付けで、大阪市指定有形文化財及び有形民俗文化財として指定しました。

 本市では、市内に所在する文化財で国や大阪府が指定していないもののうち、本市の歴史や文化を理解するうえで欠かすことのできない重要なものについて、その保存及び活用により市民の文化の向上及び発展に寄与することを目的として、平成11年度から大阪市指定文化財を指定しています。

 今回は、17件を有形文化財として、1件を有形民俗文化財として、合計18件の文化財を指定しました。

 これらの文化財は一般には公開されておりません。(藤田美術館多宝塔の外観は見ることはできます。)

 新たに指定した分を加えた大阪市の指定文化財の総数は、合計287件となります。

(これまでに指定した大阪市指定文化財については、大阪市指定文化財分類一覧表でご覧いただけます。)

新たに指定した大阪市指定文化財18件の内訳(〔 〕カッコ内は所有者・管理責任者)

大阪市指定有形文化財17件、有形民俗文化財1件
建造物 1件

藤田美術館多宝塔(旧光臺院多宝塔)(ふじたびじゅつかんたほうとう(きゅうこうだいいんたほうとう)〔公益財団法人藤田美術館(都島区網島町10番32号)〕 1棟

概要:明治期の大阪経済の基礎を築いた実業家であり数寄者としても知られる藤田伝三郎(ふじだでんざぶろう)は、都島区網島に住居を構え、庭園を築いた。明治43年ごろから大正5年にかけて藤田邸の建て直しがおこなわれ、伝三郎の没後は長男の平太郎(へいたろう)が、3分割された敷地のうち中央の敷地に居住し、整備を完成した。この時、高野山の光臺院にあった多宝塔を庭園の築山に移築した。多宝塔は下層3間四方で周囲に縁をめぐらせ、上層は円形平面で漆喰塗(しっくいぬり)の亀腹(かめばら)を設け、宝形型(ほうぎょうがた)の屋根を載せている。相輪(そうりん)を含めた総高10.2メートルの小規模なものである。蟇股(かえるまた)、木鼻(きばな)などの細部意匠は、17世紀後半の時期の特徴を有す。光臺院の寺誌によると、この多宝塔は延宝7年(1679年)から元禄4年(1691年)の間の創建と記され、建築様式の特徴と合致する。移築の際に屋根が銅板葺(どうばんぶき)とされ、基壇が簡易なものとされたが、建物の本体部分はよく当初の形態を残していて、後の改変等が少ない。下層内部は天井の彩色などが良く残り、保存状態も良好である。大阪府内には近世の多宝塔は3棟のみと少ない。創建年代も推測できることから、資料的にも貴重である。旧藤田邸庭園(大阪市指定名勝)に景物として移築されたという経緯も明確であり、記念物的価値も認められる。


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藤田美術館多宝塔

美術工芸品(彫刻)8件

木造阿弥陀如来立像(もくぞうあみだにょらいりゅうぞう)〔宗教法人浄国寺(天王寺区下寺町1丁目2番36号)〕 1軀(く)

概要:浄国寺は、一説には文禄3年(1594年)開山と伝える、下寺町に寺地を構える浄土宗の寺町寺院である。浄国寺の本尊像である木造阿弥陀如来立像は、像高95.7センチメートル、玉眼(ぎょくがん)を嵌入(かんにゅう)し、両手を胸横で屈臂(くっぴ)して掌を正面に向け印を結ぶ形状を呈し、説法印(せっぽういん)を結ぶ立像の全国でもとても希少な作例である。上町台地に伝来する中世の阿弥陀像のひとつで、制作年代は鎌倉時代、13世紀後半から14世紀初めにさかのぼると考えられる。


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木造阿弥陀如来立像(浄国寺)

木造阿弥陀如来立像(もくぞうあみだにょらいりゅうぞう)〔宗教法人専念寺(天王寺区上本町西4丁目1番15号)〕 1軀(く)

概要:専念寺は、一説には文禄年間(1592年~1596年)開山と伝える、上本町八丁目寺町に寺地を構える浄土宗の寺町寺院である。専念寺の本尊像である木造阿弥陀如来立像は、像高80.7センチメートル、玉眼を嵌入し、動きのある衣文(えもん)、衲衣(のうし)下端の中央が逆三角形を呈することが特徴の、来迎印(らいごういん)を結ぶ像である。上町台地に伝来する中世の阿弥陀像のひとつで、制作年代は鎌倉時代、13世紀後半から14世紀初めにさかのぼると考えられる。


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木造阿弥陀如来立像(専念寺)

木造阿弥陀如来立像(もくぞうあみだにょらいりゅうぞう)〔宗教法人光明寺(天王寺区上本町5丁目2番18号)〕 1軀(く)

概要:光明寺は、一説には文禄3年(1594年)開山と伝える、上本町八丁目寺町に寺地を構える浄土宗の寺町寺院である。光明寺の本尊像である木造阿弥陀如来立像は、像高97.2センチメートルの玉眼像で、開口して歯相を呈し、全国でも10数例しかない希少な歯吹(はふき)阿弥陀の作例で、装飾的な衣文が特徴である。上町台地に伝来する中世の阿弥陀像のひとつで、制作年代は南北朝~室町時代、14世紀後半と考えられる。


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木造阿弥陀如来立像(光明寺)

木造阿弥陀如来立像(もくぞうあみだにょらいりゅうぞう)〔宗教法人富光寺(淀川区加島4丁目10番8号)〕 1軀(く)

概要:富光寺は、中世には淀川流域の港湾都市であった加島に寺地を構える真言宗の寺院で、奈良時代、法道(ほうとう)の開山と伝える。富光寺の本尊像で本堂中央にまつられる木造阿弥陀如来立像は、市域で最も大きな像高の半丈六(はんじょうろく)の立像で、像高290センチメートル、現状は古色である。動きのある鎌倉風の衣文を呈する体部は桃山~江戸時代前期の制作、幅広の頭部は彫眼(ちょうがん)像で量感があり、頭部の前面材のみ平安時代末から鎌倉時代初期、12世紀末にさかのぼる古像を転用した可能性が考えられる。


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木造阿弥陀如来立像(富光寺)

木造不動明王坐像(もくぞうふどうみょうおうざぞう)〔宗教法人富光寺(淀川区加島4丁目10番8号)〕 1軀(く)

概要:富光寺境内東側に建つ不動堂の本尊としてまつられる木造不動明王坐像は、像高38.9センチメートルの彫眼像で、膝前部分も含む像のほとんどを一木から彫出する。像底には墨書による銘記があり、「空海作の八躰(はったい)不動」の一体で、貞和4年(1348年)に高野山龍光院の宥算(ゆうさん)が譲与することを記している。銘記は造立(ぞうりゅう)銘ではないが、像容や彫技から銘記の年代である貞和4年とあまり隔たらない14世紀中頃に制作されたと考えられる。市域に伝来する不動明王の古い作例の一つである。


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木造不動明王坐像(富光寺)

銅造蔵王権現立像(どうぞうざおうごんげんりゅうぞう)〔宗教法人香具波志神社(淀川区加島4丁目4番20号)〕 1軀(く) 附1軀

概要:香具波志神社は、加島に社地を構える淀川流域有数の神社で、天徳3年(959年)、稲荷神の使者である一人の童子の神託により、この地に稲荷神をまつったことが端緒という。蔵王権現立像は、像高24.5センチメートル、市域では希少な平安時代後期、12世紀代に制作がさかのぼる金銅仏で、元禄期に境内にあった蔵王権現社の神体とも伝える。面部の表情には造立当初の様相がうかがえる。附(つけたり)とする木造童子形神(どうじぎょうしん)立像は、神託を行った使者の童子の彫像で、蔵王権現立像とともに、神体の前立像(まえだちぞう)としてまつられていたと伝える。


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銅造蔵王権現立像(香具波志神社)

木造男神坐像(もくぞうだんしんざぞう)〔宗教法人住吉大社(住吉区住吉2丁目9番89号)〕 3軀(く)

概要:住吉大社は、住吉神をまつる神社として、広く信仰を集めている。祭神は、住吉三神と称される表筒男命(うわつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、底筒男命(そこつつのおのみこと)の男神三神(だんしんさんしん)と、息長足姫命(神宮皇后)(おきながたらしひめのみこと(じんぐうこうごう))である。このうち男神三神の神体としてまつられてきたという「古代神像(こだいしんぞう)」と称される神像3軀が伝来している。像高はいずれも20センチメートル強で、内刳り(うちぐり)のない一木造像、頭上に巾子冠(こじかん)を戴く束帯(そくたい)姿で、膝前部分を簡略化した、市域では希少な古様な神像である。制作年代は、1軀は平安時代後期の12世紀代、残る2軀は鎌倉時代、13世紀代と考えられる。


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木造男神坐像(住吉大社)

木造勝鬘夫人・十一面観音菩薩坐像(もくぞうしょうまんぶにん・じゅういちめんかんのんぼさつざぞう)〔宗教法人勝鬘院(天王寺区夕陽丘町5番36号)〕 2軀(く)

概要:四天王寺境外子院(してんのうじけいがいしいん)である勝鬘院は、その名称が女性の信者である勝鬘夫人と勝鬘経に由来し、女性と関連が深い寺院であるが、全国的に見ても類例のない勝鬘夫人の彫像を伝えている。対になってまつられる十一面観音の彫像とともに、元禄7年(1694年)に四天王寺一舎利(いちしゃり)が女性の信者の供養のために造立したことがわかる、市域における近世前期の在銘彫刻である。勝鬘院に伝わる女性と関連が深い祭祀「愛染まつり」が形を整えた時期に造立されており、愛染まつりや市域における女性と関係する信仰を考えるうえでも貴重な史料である。


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木造勝鬘夫人坐像(勝鬘院)

美術工芸品(絵画)4件

大念佛寺仏画群(だいねんぶつじぶつがぐん)〔宗教法人大念佛寺(平野区平野上町1丁目7番26号)〕 1括(78点 附6点)

概要:融通念仏宗(ゆうづうねんぶつしゅう)の総本山である大念佛寺は、平野区平野上町に寺地をおく。中世の遊行(ゆぎょう)する念仏教団から近世初めに定堂化し、現在の寺地に堂宇を構えた。大念佛寺の仏画では、重要文化財に指定されている明徳版本(めいとくはんぽん)の融通念仏絵巻(ゆうづうねんぶつえまき)がよく知られているが、この他にも、融通念仏縁起や天得如来(てんとくにょらい)など、融通念仏宗特有の画像をはじめ、多数の仏画が伝来している。中世に制作がさかのぼる画像も含まれる市内有数の仏画群である。


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大念佛寺仏画群 阿弥陀如来及八大菩薩画像

下別時関連仏画群(しもべつじかんれんぶつがぐん)〔宗教法人法明寺(平野区喜連4丁目2番20号)〕 一括(6点 附1点)追加指定

概要:下別時は、中世の融通念仏教団を支えていた念仏集団のひとつの呼称で、法明寺はその法灯を伝える寺院である。法明寺伝来の仏画群11点と附2点が既に市指定となっているが、近年の調査等によりさらに複数の仏画が確認された。融通念仏宗特有の絵巻である融通念仏縁起・融通大念仏亀鐘之縁起(ゆうづうだいねんぶつかめがねのえんぎ)をはじめとする画像群で、制作年代が中世にさかのぼる作例も含んでいる。先に指定した仏画群を補完する史料である。


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下別時関連仏画群 融通念仏縁起(法明寺)

住吉神画像群(すみよししんがぞうぐん)〔宗教法人住吉大社(住吉区住吉2丁目9番89号)〕 一括(8幅  附2点)

概要:住吉大社の祭神は、住吉三神と称される表筒男命、中筒男命、底筒男命の男神三神と、息長足姫命(神宮皇后)であるが、住吉神としてあらわされる場合は、髭(ひげ)をたくわえ、頭巾をかぶり、腰をまげた老相(ろうそう)で、右手に団扇(うちわ)、左手に杖をとることが一般的である。住吉大社には、奉納や講の廃絶により寄進された画像が複数点伝来している。その中には、中世にさかのぼる画像や、住吉絵所預(すみよしえどころあずかり)作の画像なども含まれており、住吉大社における住吉神信仰の様相をうかがわせる画像群である。


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住吉神画像 室町時代 津守国栄奉納(住吉大社)

大阪画壇奉納扁額 (おおさかがだんほうのうへんがく)〔宗教法人住吉大社(住吉区住吉2丁目9番89号)〕 一括(55面)

概要:上田耕冲(うえだこうちゅう)をはじめとする、明治期の大阪画壇に関係する画家が、明治32年(1899年)頃に一括して制作し奉納した板絵の扁額(へんがく)で、全55枚からなる。住吉神の神使(しんし)である白鷺、住吉神の画像に描かれることの多い松、住吉神の神馬である白馬、住吉浜の風景などを画題としている作例が多い。住吉大社に対する信仰が、大阪で広く根付いており、大阪画壇の画家からも篤く信仰されていたことを物語る史料であり、大阪画壇に関する史料としての側面も有する画像群である。


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大阪画壇奉納扁額 上田耕冲画 竹に白鷺(住吉大社)

歴史資料4件

大阪天満宮 天神信仰関係画像史料(おおさかてんまんぐう てんじんしんこうかんけいがぞうしりょう) 〔宗教法人大阪天満宮(北区天神橋2丁目1番8号)〕 一括(77点)

概要:大阪天満宮には、近代以前に制作された天神画像が74点、絵伝も含めると77点が伝来しており、全国有数の天神画像群となっている。これらの画像は、江戸時代以降、信者が造立を発願(ほつがん)して奉納したり、入手・伝来の画像を改めて寄進・奉納した結果として集積した史料であり、多種多様な天神画像からなり、その中には、中世に制作がさかのぼる画像や、近世・近代の大阪ゆかりの著名な画家の作例も含まれる。大阪天満宮の天神信仰の歴史とその様相をうかがわせる貴重な史料である。


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大阪天満宮天神信仰関係画像史料 天神画像(雲中天神)

最勝寺真宗関係史料(さいしょうじしんしゅうかんけいしりょう)〔宗教法人最勝寺(西区北堀江1丁目6番18号)〕 一括(12点)

概要:最勝寺は西区北堀江に所在する真宗大谷派の寺院である。『大坂惣末寺由緒書(おおさかそうまつじゆいしょがき)』によれば、住吉郡五箇荘(すみよしぐんごかのしょう)に創建、慶長15年(1610年)5代住持道了(どうりょう)の代に大坂市中の釣鐘町に移転し、その後現在の寺地に移ったと伝える。道了は、大谷派12世門主の本願寺教如(きょうにょ)に重用されていたようで、道了あての教如の書状をはじめ、石山合戦の時代の16世紀末から、大坂の陣後の17世紀前半の史料が伝来している。中世史料を含む、市域有数の真宗関係史料である。


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最勝寺真宗関係史料 教如・下間了明書状

敬正寺真宗関係史料(きょうしょうじしんしゅうかんけいしりょう)〔宗教法人敬正寺(平野区瓜破東5丁目5番10号)〕 一括(10点)

概要:敬正寺は、平野区瓜破東に寺地を構える真宗大谷派の寺院である。古代寺院の永楽寺(えいらくじ)の後身で、衰退後に真宗の道場となったという。15世紀後半の六字名号(ろくじみょうごう)と16世紀前半の画像本尊に加えて、大谷派13世門主宣如(せんにょ)による寛永2年(1625年)の木仏免状(もくぶつめんじょう)と木仏本尊など、大坂の陣後の17世紀前半に本願寺から下付された免物(めんもつ)がまとまって伝来する。大坂の陣後、市中の周縁地域の復興が、あまり時間を隔てずに進んでいたことを示す史料である。中世から近世の各時代の本尊と、17世紀前半の史料が一括して伝来することが特徴である市域有数の真宗関係史料である。


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敬正寺真宗関係史料 方便法身阿弥陀如来画像

大阪の近代橋梁遺産 心斎橋石橋部材(おおさかのきんだいきょうりょういさん しんさいばしいしばしぶざい)〔大阪市(教育委員会)〕 装飾柱4基

概要:心斎橋石橋は、長堀川北岸に市電敷設の計画が生じ、沿道の橋を堅固にする必要から、明治42年(1909年)に鉄橋に代わって架けられた。設計は大阪府土木部、意匠設計は建築家・野口孫一(のぐちまごいち)が行った。大阪における最初の純西洋式の石橋で、野口のデザインによるゴシック風の高欄(こうらん)、バルコニーを支える装飾柱が美観を添え、市民から眼鏡橋と呼ばれて親しまれた。長堀川が埋立てられることになり、昭和37年(1962年)に撤去され、昭和39年(1964年)に心斎橋歩道橋が新造された。現在、歩道橋は撤去されているが、橋脚の装飾柱4基すべてが移設され残存していたことが、令和2年(2020年)に判明した。これは大阪における近代橋梁の記念碑的な歴史資料として貴重である。


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心斎橋石橋 装飾柱

有形民俗文化財1件

木造月益(つきます)・日益(ひます)・玉照(たまてる)尼坐像(にざぞう)〔宗教法人宝泉寺(中央区龍造寺町6番15号)〕 3軀(く)

概要:宝泉寺は、中央区龍造寺町に所在する、四天王寺の境外子院のひとつで、覚の坊(かくのぼう)とも称する。聖徳太子の乳母で、日本比丘尼の開祖とされる月益・日益・玉照の三人の尼が、四天王寺の引声堂(いんぜいどう)の南に結んだ草堂が端緒で、大坂の陣の際に荒廃したが、寛永年間(1624年~1644年)に、覚如比丘尼(かくにょびくに)が現在の寺地に再興したという。近年まで代々尼僧が住持をつとめ、日本比丘尼開祖の尼寺として信仰を集めている。三尼をまつる開山堂奥に、全国的にも希少な三尼の彫像3軀がまつられおり、江戸時代の地誌などから、女性から篤く信仰されていたことがうかがえる。四天王寺の信仰圏で、女性と関連する信仰が重視されていたことを示す貴重な史料である。


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月益坐像(宝泉寺)

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