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トレイルルート各ポイントのご紹介

2009年3月8日

ページ番号:1474

1ユニバーサル・シティウォーク大阪TM

ユニバーサル・シティウォーク大阪

 アメリカにある2つのUniversal City WalkTMについで世界で3番目に誕生したエンターテインメント型商業施設『ユニバーサル・シティウォーク大阪TM』。本場ハリウッドの雰囲気をそのまま受け継いだ陽気で明るく開放的な街並みの中で、大人から子どもまで、リアルなアメリカを体感できるミュージアムや本場の味にこだわったワールドグルメなどが満喫できます。

Universal CityWalk OsakaTM Universal Studios.All rights reserved.CR04-0652

 

2此花今昔物語・大阪浪漫

此花今音物語・大阪浪漫(写真)

 住友金属工業南側塀を利用して、縦1m、横2mの巨大写真が展示されています。
 此花区の歴史や産業の発展、子どもたちの描く此花区の未来図まで、映画のフィルムを見るような感じで楽しめます。ゆっくり歩いて見るのがおすすめです。

 

3産土(うぶすな)神社

 宝暦12年(1762)、大阪の島屋(浅田市兵衛)が新田の鎮守神として創建しました。当時は正蓮寺川左岸の一角にありましたが、昭和9年(1934) の室戸台風などの風水害により被災し、昭和13年に現在地へ遷宮しました。閑静な境内には旧恩貴島町島屋町大風水害復興記念碑があります。

 

4スーパー堤防

スーパー堤防(写真)

 阪神大地震により堤防が崩れ、高規格堤防(スーパー堤防)としてより丈夫で大きい堤防に生まれ変わりました。スーパー堤防は、地域住民にとって防災上大変重要な機能を持っています。また、従来のような河川区域としての厳しい規制はなく、高層住宅が建ち並び、水と緑に恵まれた良好な河川空間を活かし、人 (生活)と河川(自然)のよりよい関係を築き上げようとするものです。

 

5伝法水門

 明治6年(1873)、度重なる洪水や高潮などの水害のため淀川の改良工事が行われ、それに伴い伝法閘門(こうもん)が完成しました。しかしその後、工業化の進展に伴い地下水の使用過多による地盤沈下が激しくなり、閘門としての機能が失われました。昭和39年(1964)、高潮対策として閘門に代わり現在の伝法水門が完成しました。

 

6伝法川跡

 昔は鴉宮の敷地が島になっており、伝法川の終着になっていました。
 伝法地区には古くから造り酒屋がたくさんあり、その酒を江戸まで酒樽で運ぶ樽廻船が頻繁に出入りする、大阪の水運の玄関口となっていました。

 

7正蓮寺

 寛永2年(1625)、甲賀谷又左工門(正蓮日宝禅定門)が日蓮大聖人の海中にて衆生済度せられた功徳を継承するため小庵を建立したのがはじまりといわれています。大阪25ヵ寺に数えられていました。重なる火災や地震の災害に遭い、今ある本堂は明治7年(1874)のものです。毎年8月26日に行われる「川施餓鬼」は享保6年(1721)から始まった行事で、日本三大施餓鬼の一つとして江戸時代から有名です。門前に旧尼崎街道の道標があります。

 

8庚申堂(こうしんどう)

廣申堂(こうしんどう)(写真)

 青面金剛(帝釈天の使者の金剛童子とのこと。病魔を退散させる威カがあるとする)を祀った「庚申堂」は、元は明暦4年(1658)、国家安泰、五穀豊穣を祈願して建立された愛宕神社の中にありました。しかし、愛宕神社は明治42年(1909)に濡標住吉神社に合祀されましたが、地元の強い要望で「庚申堂」だけが残りました。申を施した彫刻の飾りがあるところから、申神社とも呼ぱれています。

 

9伝法山西念寺

 日本仏教上陸の地、なにわ津の船寺、十万石の大名寺。大化元年(645)法道仙人が建立し、大同元年(806)空海上人が中興され、延喜元年(901) には菅原道真公が滞留されます。鎌倉末嘉暦3年(1328)以後、四宗兼学の寺となり、摂・河・泉・三国の四大本山として栄え、日本三大船まつり-8月 23日「流潅頂・川せがき」-と11月14日「お十夜とのっぺ焚き」の伝統行事を残しています。明治6年(1873)には小学校(現伝法小学校)が当寺に設置され、門前には「大坂道」-尼崎街道-が通り、「備前橋」も有りました。現在でも、納骨、観音信仰・お大師信仰の霊場として参詣のたえない寺です。

 

10日本鋳鋼所跡(伝法小学校内)

日本鋳鋼所跡(伝法小学校内)(写真)

 日本鋳綱所(現住友金属)の発祥の地として、小学校の校門を入ったところに石碑が残っています。日本鋳綱所は、明治32年(1899)建設された我が国初の本格的な製鉄所で、翌年4月に初湯されました。

 

11澪標(みおつくし)住吉神社

 延暦23年(804)、遣唐使の航路安全を祈願してほこらを造り、一行の帰路を迎えるため澪標を立てたのがはじまり。後に、土地の守護神・海上交通安全の神として社殿境内に整えられました。昔は水路のしるしとして至る所に立ててあった澪標は、大阪市の市章のデザインともなっています。桜や新緑の季節は、美しくすがすがしい社です。境内には光石神社もあります。

 

12鴻池本店・旧鴻池本宅

鴻池本店・旧鴻池本宅(写真)

 旧本店は明治43年(1910)に建てられたクラシック・モダンな木造洋館です。明治から大正にかけて流行したアールヌーボー様式を十分に取り入れ、当時では珍しいステンドグラスを使用しています。昭和57年(1982)に日本建築学会から全国主要建築物に選定されました。旧本宅は旧本店と前後して建てられた町屋風の建物で、2階内部は当時著名な彫刻家相原雲楽の作品です。

 

13鴉宮(からすのみや)

 此花区に残る最も古い伝記として順徳天皇の御代建保3年4月(1215)、村と港の繁栄を祈念し、伝法村の中心に傅母頭神社として鎮座されたのがはじまり。文禄元年(1592)、豊臣秀吉が出兵の際、瀬戸内より日本海への安全を祈願したところ、神告どおり海路平安、また三本足の霊鳥「八咫烏」が軍船の前後を飛んで船を守ったと言われています。これに感激した秀吉が、帰国後、神社名を「鴉宮」と改め、現在地に遷宮したと伝えられています。

 

14森巣橋(もりすばし)

 文久3年(1863)、備前藩によってかけられたこの橋は、川の側にある鴉宮の元の名である「傳母頭神社」の「傅母頭」の名を保存する為に名付けられたと言われています。豊臣秀吉が「八咫烏」にちなんで「傳母頭神社」を「鴉宮」とあらためました。又その折、木々が「森林欝々」と茂って鴉の巣のような形をしていた所を選定し遷宮されたと伝えられています。現在の鴉宮の近くにこの橋が架けられ、こうした故事を伝える橋ともいえます。

 

15白砂(しらすな)大神(現在はありません)

白砂(しらすな)大神(写真)

 大阪市電は明治36年(1903)に花園筋~築港桟橋間で開通しましたが、此花区には大正9年(1920)に福島区野田(当時は兼平町)から朝日橋まで入り、順次、千鳥橋・三本松・桜島・桜島駅前まで延伸されました。これに伴う道路拡幅工事で、白砂大神脇にあるいちょうの木を切ろうという話が持ち上がりましたが、付近の住民に神木としてあがめられていたためそのまま残し、毎年5月にはおまつりが行われていました。平成27年11月、いちょうの木の老朽化が激しく、倒壊の危険があったので、祈祷のうえ伐採し、白砂大神は伏見稲荷大社へ遷座(せんざ)しました。

 ※写真は遷座前の白砂大神を撮影したものです。

16西九条公園

西九条公園(写真)

 此花区内でも有数の梅の名所です。「此花」という区名の由来となった昔王仁博士が詠んだと伝えられる
 『浪速津や 咲くやこの花 冬ごもり
今をはるべと 咲くやこの花』
にありますように、元来花といえば、大阪では梅の花です。梅の古語は「木の花」です。十数種類の梅の木が百数十本植えてあり、道行く人に春の訪れを告げています。梅の花が満開になるとすばらしい眺めです。

 

17安治川隧道(あじがわずいどう)

 安治川は、貞享元年(1684)より水都大阪の主要水路として利用され、両岸には回船問屋や船宿が立ち並んでいました。この安治川の両岸を結ぶ渡しとして「源兵衛渡し」という渡し船の乗り場がありました。この渡しの場所に、昭和19年(1944)、川の底をトンネルで結んだ安治川隧道がつくられました。当時は人と自動車の双方が通行できましたが、昭和52年(1977)からは、自動車用のトンネルは閉鎖されています。このような形式のトンネルは全国でもたいへん珍しく、大阪の近代を物語る貴重な文化財のひとつです。

 

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