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川の流れがまちをつくる

2011年4月1日

ページ番号:66218

 むかしの大和川は、今の柏原市あたりで大きく曲がり、河内平野をゆっくりと北へ流れ、淀川に合流していました。大雨のたびに洪水が起こり、田畑や家を流されたり、江戸時代には68年間に15回もの大水害があったといいます。
そこで、今のように、西へまっすぐ大阪湾に注ぐように、つけかえ工事をする考えがもちあがりました。今米村の九兵衛やその子の中甚兵衛のように、親子にわたり、熱心に運動を続け、何度も幕府へはたらきかけをした人たちもいました。しかし、逆に、新しい川すじにあたる村々が、いっせいに反対し、なかなか幕府のゆるしが出ませんでした。
 40年以上にもわたる、長いねばり強い願いによって、ついに1703年、幕府から、つけかえ工事がゆるされました。わずか8ヵ月という短い間に工事を完成したので苦労が多かったようです。
しかも、自分の土地が北と南に分けられたり、畑をすべて取り上げられたり、村が二つに切りはなされたりするなど、別の苦しみを受けた人たちもたくさんありました。
大和川のつけかえで、上流から流されてくる土や砂がたまり、今の住之江のあたりのようすが、大きく変わってきました。人々はこうしてできた浅瀬などを、埋め立てて田や畑を作りました。これを新田といいます。人々も、たくさん住むようになっていきました。


1700年ごろの大和川の川すじ

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