六軒家川に架かる朝日橋に通じる街路の両側を町域としていたことに由来する。朝日橋の名の由来は、この橋が岡山藩の手によって文久3年(1861)に初めて架けられ、その時、岡山藩城下を流れる旭川にちなんで名付けられたことによる。
桜島町地先の埋立て地であることから梅町(埋町)となる。桜と梅を春の花として賞でるわが国の風俗による。
当地の開発者である雑賀屋七兵衛の春日大神信仰に由来する。伝えるところによると、新田開発当初、当所において鹿が殺されるのを目撃した七兵衛が、その鹿を春日神の使いとして丘を築いて土中に手厚く葬ったという。鹿が出現したこと、即ち、春日神の使者が出現した地を意味する。
春日出・南の両新田の桜堤と当地の埋立て権者である島徳蔵の姓を合成したことに由来する。従来の説は、小さな築山が埋立て地内にあり、桜が植えられていたことにより命名されたとも鹿児島県の桜島にちなんだ命名とも言われていたが確証はなかったという。
この島の開発後にさる人が価四貫文で買い受けたことに由来するとされるが、ほかにも「四官と称する唐人が当地に居住し、のちに四貫と名を改めた」という説や、安治川の洲で発見された観音菩薩像に関わり、観音が止り給うたことから止観島とし、のちに四貫島の字が用いられたことによるという説もある。
宝暦年間(1751~63)に当地に新田を開発した島屋市兵衛の屋号に由来する。
旧字名が大高見であったことに由来する。
天保5年(1834)に西成郡南方村の人、常吉庄左衛門が常吉新田として開発したことに由来する。
以下のように数説が存在している。
この地の開発者である多羅尾七朗右衛門の居住地(大坂)から酉の方角、すなわち真西方にあたる埋立て新田であることに由来する。
貞亨元年(1684)に行った河村瑞賢の治水事業の一環として開削された新堀(安治川)によって、従来の九条島が東西に二分され、その西側の島を町域としていることに由来する。
四貫島の土地所有者であった正岡徳兵衛家の先代養母の名にちなむ「梅香」(法名)に由来する。
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