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都島区の史跡(相蘇一弘さん監修)

2016年10月14日

ページ番号:16853

蕪村の生誕地・句碑(ぶそんのせいたんち・くひ)

毛馬町3-7 毛馬堤防上

蕪村の生誕地・句碑の写真

 江戸中期の俳壇を革新し南宗画を開拓した与謝蕪村は、享保元年(1716)、摂津国東成郡毛馬村(現都島区毛馬町)に生まれました。本姓谷口、のちに与謝。20歳のころ江戸に出て早野巴人に俳諧を学び、東国から丹後国与謝地方を遊歴後、43歳で画家として京都に定住し、詩情あふれる独特の画境を開きました。俳諧では早野巴人の夜半亭を継ぎ、感性的・浪漫的な俳風を生み出し、芭蕉と並び称されています。
 安永6年(1777)作の長詩「春風馬堤曲」は、藪入りで毛馬堤を故郷へ急ぐ女性の情趣を蕪村自身の郷愁の念を籠めて描いたもので、蕪村はこの地を離れた後も幼時を想い毛馬村へ望郷の念を抱き続けていたことがわかります。
 淀川左岸堤防上に建つ蕪村の句碑は、「春風馬堤曲」の「春風や堤長うして家遠し」の句を蕪村の筆跡で刻んだもので、淀川改修百年記念として昭和55年(1980)に建てられたものです。

毛馬の水門・閘門(けまのすいもん・こうもん)

毛馬町3-8

毛馬の水門・閘門の写真

  明治18年(1885)の大水害を機に淀川の大改修が行われ、同43年に新淀川が開削されました。このとき毛馬で新淀川と分岐する旧淀川の水量調節と舟運の便のために建設されたのが毛馬洗堰と閘門です。洗堰は川の水が常にその上を流れ越す程度の高さに作った堰、閘門は水位の高低差の大きい河川で水を堰き止めて船舶を通過させる装置です。
 設計者はオランダ人技師ヨハネス・デ・レーケで、閘門は明治40年、洗堰は同43年に竣工しました。大正7年(1918)に第2閘門が竣工すると元の閘門は平時は開放、高水時は閉鎖して洪水を防ぐ役割を果たしました。
 その後、昭和49年(1974)上流に新毛馬水門・閘門が築造され、同57年に新しく淀川大堰が完成したことにより、旧洗堰と閘門は役目を終えて閉鎖されましたが、一部はわが国の近代治水工事の貴重な遺産として河川公園内に保存されています。

淀川神社(よどがわじんじゃ)

毛馬町1-2

淀川神社の写真

 明治42年(1909)政府の神社合祀令により、城北村大字毛馬(現毛馬町、大東町)の氏神である八幡神社が大阪市北区中野町(現中野町)の櫻宮に、また城北村大字友渕(現友渕町、毛馬町の一部)の氏神である十五神社が古市村大字南島(現旭区)の大宮神社に合祀されました。
 のち毛馬・友渕の両地域では失われた神社復興の願いが強く、昭和26年(1951)に旧十五神社の境内地と社殿を用いて、旧十五神社と旧八幡神社を合祀し、毛馬町・友渕町・大東町の総鎮守として再建されたのが淀川神社です。祭神は天照皇大神と八幡大神です。

渡辺綱・駒つなぎの樟(わたなべのつな・こまつなぎのくす)

善源寺町1-11

渡辺綱・駒つなぎの樟の写真

 当地は明治42年(1909)まで旧善源寺村の産土神社が鎮座したところで、この樟の大樹は同社の境内にあったものです。この樹は平安時代の中ごろ、源頼光が社を創建する際に植えたもので、頼光の家臣の渡辺綱が参詣するとき馬をつないだとの伝承があるところから「渡辺綱・駒つなぎの樟」と呼ばれています。この伝承は当地が鎌倉期に源氏ゆかりの多田院領善源寺荘であったことや、この樹が樹齢 900年余もの大木であるところから、酒呑童子退治で有名な源頼光や渡辺綱に結びつけられて生まれたものと考えられます。
 『大阪府全志』によれば、大正の頃、この樟は周囲約12メートル、高さ約30メートルもの大木でした。昭和のはじめに大阪府の天然記念物に指定されましたが、戦災で枯死し現在は往時の姿を偲ばせるだけになっています。

母恩寺(ぼおんじ)

都島本通1-20

母恩寺の写真

 旧沢上江村(滓上江村とも書く)の地にある浄土宗の尼寺で、寺伝によれば仁安3年(1168)に後白河法皇が生母待賢門院の菩提を弔うために創建し、母后報恩の意を籠めて寺号としたといわれています。もとは数箇所の荘園と大伽藍を有する大きな寺院でしたが、度重なる洪水や兵火に罹り衰微したと伝えられています。
  元禄14年(1701)刊の『摂陽群談』によれば、本尊の阿弥陀仏は恵心僧都の作といい、またこの寺の尼僧が作る美しい綿帽子は「滓上江の綿帽子」として名高く、名物になっていたといわれています。

都島神社(みやこじまじんじゃ)

都島本通1-5

都島神社の写真

 旧沢上江村(滓上江村とも書く)の鎮守社で、草創は明らかではありませんが、平安後期、後白河法皇が生母待賢門院の菩提寺である母恩寺に行幸したときに、鎮護の神社として創建されたと伝えられています。
 天照大神・応神天皇・宇賀御魂神など十五の神を合祀したのでもとは「十五神社」と称していましたが、昭和18年に「都島神社」と改称しました。
 社殿は太平洋戦争末期の空襲で焼失し、昭和24年に再建されました。境内に嘉元2年(1304)銘の石造三重宝篋印塔(ほうきょういんとう)があり、類例が少なく、かつ市内最古の石造建造物として大阪府の有形文化財に指定されています。

農業用水門(のうぎょうようすいもん)

都島北通1-1

農業用水門の写真

 かつて都島区一帯には一面の田園が広がり、井路川(いじがわ)と呼ばれる農業用水路が淀川から寝屋川方向に幾筋も流れていました。水門は用水の取入れや排水、洪水の防御など、必要に応じて開閉し、水路の水の流出入を調節するための施設です。
この水門は、都島区がかつて淀川の恵みを受けるゆたかな田園地帯であったことの象徴として、近くの旧家に残されていたものを昭和49年に都島本通交差点の緑地帯に整備復元したものです。

大阪市水道発祥之地(おおさかしすいどうはっしょうのち)

中野町5-13 毛馬桜之宮公園内

大阪市水道発祥の地写真

 沖積地である大阪ではほとんどの井戸水が飲料に適さず、市民は桜宮付近で汲んだ淀川の水を買って飲んでいましたが、明治19年、23年にコレラが流行し、良好な飲料水の提供と消防力強化のために上水道の設置が急務となりました。そこで 256万円余の費用と3年余の歳月をかけて、明治28年(1895)11月に大阪市ではじめての水源地として完成したのが桜宮水源地です。
 桜宮水源地はポンプで大阪城内の貯水池に送水し自然流下により市内に供給する方式で、1日 51,240立方メートル、61万人分の給水能力を有しましたが、市域拡大に伴う人口増加で明治34年に拡張され、大正3年(1914)に柴島浄水場(現東淀川区)の完成により給水を休止し、同9年に廃されました。都島橋東詰の公園に水道70周年を記念して昭和40年に建てられた「水道発祥之地」の碑があります。

鵺塚(ぬえづか)

都島本通3-18

左:鵺塚の写真1 右:鵺塚の写真2

 旧沢上江村(滓上江村とも書く)母恩寺東北の野中に、『平家物語』に見える鵺(ぬえ)を埋めたと伝える塚です。同書によれば、平安末期、近衛天皇を夜ごと悩ませていた怪鳥を源頼政が射落としたところ、頭は猿、胴体は狸、尾は蛇、手足は虎の姿で鳴く声は鵺(トラツグミ)に似ていたといいます。源頼政は摂津源氏源仲政の長男で、保元・平治の乱に功をたて、後に以仁王を奉じて平氏追討を図り、破れて宇治で自殺した人物です。
 鵺塚はすでに江戸初期の地誌『芦分船』に紹介され、くり船に入れて淀川に流した鵺の死骸が、下流の浮洲に止まって朽ちた場所だと記しています。鵺塚は兵庫県芦屋市にも伝承地がありますが、「いづれも論ずるにたらん」(『摂津名所図会』)と江戸期の地誌類は否定的です。

櫻宮(さくらのみや)

中野町1-12

桜宮の写真

 摂津東成郡中野村(現在の中野町)の淀川左岸に鎮座し、天照皇大神を主祭神とします。社伝によれば、もとは野田村(現在の東野田町)の旧大和川の堤、字桜の馬場にあったが、元和6年(1620)に社殿が洪水で流され、漂着した中野村に改めて祀られました。ところがそこも低地で再び水禍に遭ったため、宝暦6年(1756)現在地に遷座したと伝えられています。
 のち、境内はもとより淀川の東岸に至るまで桜が植えられ、花の盛りには「雲と見、雪と疑ふ」ほどであったので、市中から徒歩や船で訪れる人が多く、「実に浪花において遊宴の最上、花見の勝地」(『浪華の賑ひ』)と賞される名所になりました。このため、旧地の地名に因んでつけた社名は、広く桜の花に因むと思われるようになったといいます。
 当社はもとは中野村・野田村・備前島町の氏神でしたが、明治40年(1907)に北野兎我野町(現北区)の若宮八幡神社、同41年に鯰江町(現城東区)の新喜多神社、同42年に毛馬の八幡大神宮、善源寺町の産土神社を合祀しました。

青湾(せいわん)

中野町1-10 毛馬桜之宮公園内

青湾の碑の写真

 桜宮堤防下の淀川左岸にかつて水が渦巻く青湾という小湾がありました。豊臣秀吉はここの甘く香る水を好んで茶の湯に用い、後世の隠元・高遊外・上田秋成・田能村竹田ら雅人たちも賞賛したといいます。明治28年(1895)に上水道ができるまで、大坂市中の飲料水として水屋が水船に積んで市中に運び、戸毎に供給したのもこの辺りの淀川の水でした。
 青湾の名称は秀吉に仕えた茶人・大江青湾に因む、あるいは秀吉が明使献上の西湖の水を数壷沈め、移植した西湖の柳が青く映ったことに因むなど、幾つかの説がありますが不明です。
 文久2年(1862)の春、湾の近くに住み、日々に煎茶の水を汲んだ文人画家・田能村直入が播州山崎藩主本多忠明に「青湾」二大字の揮毫を依頼して碑を建てたのが青湾碑です。落成記念には売茶翁百年忌追福を兼ね、大長寺などで「青湾茶会」が盛大に催されました。
 のちに青湾は埋められ、青湾碑だけが櫻宮鳥居前の西側に残っていましたが、現在は淀川左岸の毛馬桜之宮公園に移されています。
 平成25年(2013)に大阪市の有形文化財に指定されています。

小春・治兵衛の比翼塚と鯉塚(こはる・じへえのひよくづかとこいづか)

中野町2-1 大長寺境内

小春・治兵衛の比翼塚と鯉塚の写真

 享保5年(1720)10月14日、網島の大長寺の裏で天満の紙屋の主人・治兵衛と曾根崎の遊女・小春の心中事件がありました。この事件を脚色した近松門左衛門の浄瑠璃「心中天の網島」が評判となり、のち二人を弔うため大長寺に建てられた墓碑が比翼塚です。
 隣に鯉塚があります。大長寺発行の一枚摺「鯉塚の由来」によれば、寛文8年(1668)、淀川で捕った体と鱗に巴紋のある大きな鯉を見世物にしたところ、しばらくして死んだので大長寺に葬りました。その夜住職の夢に巴紋をつけた甲冑姿の武士が現れ、自分は大坂の陣で戦死した者で殺生の報いによりこの様な姿になったが貴僧の弔いで成仏できたと告げました。そこで住職は「滝登山鯉山居士」と戒名をつけて碑を建てました。これが鯉塚であるといいます。
 この二つの塚は、明治42年(1909)、藤田邸建築のために移転した大長寺とともに現在地に移されました。

都島由来記(みやこじまゆらいき)

網島町11 毛馬桜之宮公園内

都島由来記の写真

 都島区一帯の地は古墳時代中期以降、主に淀川の三角州の発達によって形成されました。当地に人が住み始めたのは平安時代頃からで、当時は法隆寺などの所領が入り交じる榎並荘(えなみのしょう)に属していたと推定されます。
 区名は昭和18年4月1日に区が誕生したとき、明治22年(1889)の市町村制施行時に新村名として採用された名称を継承したものです。「都島」の地名は、応神天皇の大隅宮(おおすみのみや)や孝徳天皇の長柄豊碕宮(ながらとよさきのみや)が淀川を隔てた対岸辺りにあったと想定し、これらの宮の近くであるところから生まれた、あるいはこれらの都に向き合う島という意味の「都向島(みやこじま)」が転化したものと考えられています。

貴志康一居宅遺構(きしこういちきょたくいこう)

網島町9(太閤園敷地内)

貴志康一居宅遺構

 昭和初期に、指揮者、作曲家として活躍した貴志康一は、明治42年(1909)大阪の裕福な商家の長男として生まれ、大正7年(1918)芦屋に移転するまでの幼少期を大阪市北区東野田町一丁目(現都島区網島町)で育ちました。現在同地には貴志邸の遺構である茶室・松花堂が残っています。
 貴志康一は11歳頃からヴァイオリンを始め、昭和2年(1927)スイス国立ジュネーブ音楽院に留学し、のちドイツに渡って作曲や指揮を学びました。その後二度渡欧し、昭和10年(1935)にはベルリン・フィルを指揮して自作曲を録音するなどの活動をしています。
 昭和10年に帰国後、指揮者として活躍をはじめ将来を期待されていましたが、昭和12年(1937)11月17日、心臓麻痺により28歳で夭逝しました。代表曲に交響曲「仏陀」やヴァイオリン曲「竹取物語」などがあります。「竹取物語」は湯川秀樹のノーベル物理学賞受賞の晩餐会に流されたことで有名です。

藤田美術館(ふじたびじゅつかん)

網島町10

藤田美術館の写真

 藤田傳三郎(1841~1912)と嫡子平太郎・次男徳次郎が収集した美術品を展示公開する美術館です。
 傳三郎は長州(山口県)の出身で、明治維新後、陸軍用達などで蓄財し藤田組を創設、政商として活躍し大阪財界の重鎮になりました。また古美術や茶道に対する造詣が深く、当時国外に流出するなどあまり顧みられなかった古美術品の収集につとめました。平太郎らも傳三郎の事業を継承しコレクションの充実に尽力しました。
 傳三郎は明治42年に網島町に網島御殿(あかがね御殿)と呼ばれる大邸宅を建築しました。邸は昭和20年の空襲により焼失しましたが、美術品を収めた蔵は罹災を免れ、同29年にその一部を改造して展示室とし藤田美術館が開館しました。
 所蔵品は中国、日本の絵画・彫刻・工芸・文書・書蹟・考古資料など多岐にわたり、特に茶道関係の名品が多く、総点数2,000件を超えます。うち9件が国宝、52件が重要文化財に指定されています。

京橋(きょうばし)

片町1-5

京橋の写真

 大坂城京橋口北の寝屋川にかかる橋で、架橋時期は豊臣時代に遡ります。北詰から現在の都島区域を京街道が通り、名前はこの橋が京街道の起点であったことに由来します。大坂の東の玄関口として賑わい、高札場のある橋の北詰には毎朝川魚市が立ってコイ・フナ・ウナギ・ナマズなどあらゆる種類の川魚が販売されました。
 京橋は水陸交通の要衝であったところから重要視され、大坂で12ヶ所の公儀橋(幕府の負担で修築する橋)の一つでした。幕末期にも他の公儀橋ではほとんど失われていた高欄擬宝珠があり、なかには「元和九年造立」の刻銘のあるものもあって浪華の名物になっていました。橋の損傷を防ぐため幕府御用の荷物以外、車の通行は禁止されていました。
 明治18年(1885)の大洪水により落橋し、現在の鋼橋は大正13年(1924)に完成したものです。昭和48年(1973)、橋の上に歩道橋「大坂橋」が重ねられました。

京街道の碑(きょうかいどうのひ)

東野田町5-7

京街道の碑の写真

 京街道は大坂京橋を起点にして京都に至る道で、京道ともよばれました。淀川は暴れ川でしばしば左岸が決壊し、北河内が洪水の被害を受けました。大坂、淀、伏見に城を築いた豊臣秀吉は文禄年間に軍用道路の確保と治水を兼ねて大坂から伏見までの淀川の左岸堤防を修築しました。この堤防を文禄堤といい、堤防上の道が京街道です。
 京街道は江戸時代には東海道の延長部として、守口・枚方・淀・伏見に宿(しゅく)を置くなど整備がなされ、大坂と江戸を結ぶ幹線道路の一部として賑わいました。
 明治9年(1876)に官設鉄道、同43年に京阪電鉄が大阪~京都間に開通すると、京街道の幹線道路としての重要性は急速に減退しました。

大阪大空襲京橋駅爆撃被災者慰霊碑(おおさかだいくうしゅうきょうばしえきばくげきひさいしゃいれいひ)

JR京橋駅南口

大阪大空襲京橋駅爆撃被災者慰霊碑の写真

 太平洋戦争末期の昭和20年(1945)3月13日の深夜から翌日未明にかけて、アメリカ軍による大阪への最初の大空襲が行われました。その後7度の空襲がありましたが、その最後が8月14日の大空襲です。この日の昼過ぎ、米軍はB29爆撃機 145機で大阪城東方の大阪陸軍造兵廠を中心に 707トンの爆弾を投下、このうち京橋駅に落ちた数発の1トン爆弾のうち1発が城東線の高架を突き抜けて片町線ホームで炸裂し、京橋駅だけで 200人を越える犠牲者を出しました。
 この慰霊碑は昭和22年8月14日に建立されたもので、毎年8月の記念日に犠牲者を追悼する法要が行われています。

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