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歴史を訪ねて(西淀川区) 区内の碑

2018年2月28日

ページ番号:1002

かしわの橋・野里の渡し (野里1丁目20番)

野里の渡し跡の石碑の写真

「尼崎わき道行けば渡し三ツ野里、佃に神崎のしも」(摂陽奇観)と唄われ江戸時時代、中国街道の脇道として賑わいをみせた尼崎道。この道は中津川・神崎川・左門殿川を渡し舟で渡り尼崎城下に通じる近道でした。

「野里の渡し」は中津川の渡し場で、明治9年この地に「かしわの橋」が架けられるまで賑わいました。淀川の開削により中津川は埋め立てられ「かしわの橋」は、その使命を終えました。「かしわの橋・野里の渡し跡」の石碑は橋の礎石を利用して今も街角にたたずんでいます。

中津川の面影(野里の渡し)
淀川の開削にともない、中津川は埋め立てられ、現在では面影を伺い知ることができませんが、今の野里1丁目商店街一帯が中津川の右岸にあたります。また、野里住吉神社境内東側の小高くなった場所に、中津川右岸堤防の面影をわずかに見ることができます。そこに「野里の渡し」の大阪市顕彰碑が建っています。

西成大橋親柱の碑 (鼻川神社内)

西成大橋親柱の碑の写真

新淀川の開削は、明治42(1909)に完成しましたが、そこに架けられたのが西成大橋です。
この大橋は現淀川大橋の付近にあり、梅田街道に通じ、梅田方面から西淀川区へ入る玄関口でもありました。

親柱の碑文には、明治41年12月竣工・延長四百四間参分(約735m)・高欄内法参間(幅約5.5m)と記してあります。

鼻川神社の由来は、神功皇后がこの地に立ち寄られたとき、つきたての餅を柏の葉にのせて献上すると賞味され、当地が無名であるのを聞かれて、地形が対岸に突き出て鼻のようなので、地名を「はなかわ」渡しを「かしわの渡し」と命名されました。これを記念して祭神に神功皇后を祀り、後に住民と関係の深い海老江の氏神、須佐之男命(すさのおのみこと)を併せて祀るようになったと伝承されています。

大和田城跡

大和田城跡の碑の写真

1580年(天正8年)織田信長が摂津の国を討ち従えたとき、阿波仁右衛門をしてこの地に城を築かせたことがありました。大和田の地は京都から淀川、神崎川を経て西国に通じる交通の要衝であったことから、戦略上の築城だと思われます。しかし、この城がいつごろまであったかについては明らかではありません。

今では、大和田小学校校庭の正門そばに碑があるのみです。

判官松伝承地

判官松の跡碑の写真

源平の戦いで知られる1185年(元暦2年・寿栄4年)の2月、九郎判官源義経が平家追討のため四国に渡ろうとして、大物(元尼崎の地名)の浦から軍船を出したことがありました。ところが折からの突風にほんろうされ、船は大和田の浦にうち寄せられたので、ここで再度軍容をたてなおしました。

このときの由縁の松が義経の腰掛松とも手植の松とも呼ばれて伝えられていますが、当時の状況からして、前者が正しいのではないかと思われます。また、土地の庄屋が義経に鮒の昆布巻きを献上したところ、たいへん喜ばれたことから、フジタ(鮒子多)の姓を名乗るようになったとも言われています。

なお、大野下水処理場正門前にも、顕彰碑が建立されています。

佃漁民ゆかりの地 (佃 田蓑神社内)

佃漁民ゆかりの地の碑の写真

天正年間(1573~1591)に源氏の嫡流をもって任じる徳川家康が、源家の氏神である摂津多田神社に参詣しようとしたとき、佃の漁民が協力して神崎川を船渡ししたことがありました。その功により佃の漁民は家康から運上銀(税金)の免除という特典を与えられ、同時に大坂方に対する隠密役や献魚の役などを命ぜられました。これが縁となって寛永年間(1624~1644)に佃漁民の一部が、江戸鉄砲洲に移住したいと願い出て、かの地にも佃島の地名が残る端緒となりました。

なお、田蓑神社の境内に東照宮が祀られてあるのは、佃漁民と家康とのかかわりを示すものでしょう。

このように、当区の佃は、東京佃島の本家にあたり、東京佃島の住吉神社は、当区の田蓑神社の分社でもあることから、現在、縁深い双方の土地の人々の交流が深めら れています。

とくに当区の佃小学校は昭和40年12月2日姉妹校関係が結ばれ、以来毎年両校の交歓会が開催されています。

中島大水道跡碑 (大野川緑陰道路・千舟 姫里の境界)

中島大水道跡の碑の写真

中島大水道は大道村(現在の東淀川区東大道町)の庄屋澤田久佐衛門ほかの首唱により、沿岸村民一致の努力と多大の犠牲のもとに、東淀川区淡路本町2丁目から西淀川区福町までの間、延宝6年(1678)に開削されたと伝えられ ています。

その後、明治30年代から40年代にかけて行われた淀川改修工事に伴い、神崎川の支流であった大野川と合流しましたが長い年月、地域の人々に多大の恩恵を与えてきました。

しかしながら、近年周辺の都市化とともに河川としての機能を失うに至り、下流の大野川とあわせて埋め立てられ、ここに緑豊かな歩行者・自転車専用道路としてよみがえったものです。

一休和尚の足跡 (御幣島 光明寺内)

一休和尚の足跡の碑の写真

一休和尚は室町時代の禅僧で、名は宗純、号は狂雲といい、京に生まれました。1474年(文明6年)に勅命を受けて、一時柴野の大徳寺の住持になったことがおりましたが、その時以外はおおかた放浪の生活に明け暮れていたようです。

そんなことからこの地にも暫く足をとめた時期があったらしく、光明寺には今も一休和尚の筆になる自画賛の一軸が残されています。

なお、一休さんにまつわる寓話や逸話は、江戸時代に書かれた「一休はなし」にあるもので、本当の一休和尚という人は、世の中の名声や利慾に目もくれず、ひたすら禅の普及につとめた人のようです。

また、光明寺には石山本願寺第8代法主蓮如上人の書も残されています。

天神社跡碑 (竹島 公園内)

天神社跡碑の写真

竹島は古くは竹之町と呼ばれ、天神社は1594年(文禄3年)の勧請と伝えられており、1677年(延宝5年)の加島村検地帳には、25歩(坪)5間四方・天神宮地と記載されています。

竹之町は文化年間に竹島と改称されますが1823年(文政6年)に社殿を修理し、1826年には石灯篭一対が寄進され地域住民に崇敬されていました。

しかし、1909年(明治42年)に香具波志神社(淀川区加島)に合祀されるようになり、御社は移築されました。

現在は、香具波志神社内に竹島神社として、少名彦(すくなひこ)大神・大己貴(おおなむち)大神が祀られています。

大塚切れ洪水碑 (福町淀川堤防沿い)

大塚切れ洪水碑の写真

大正6年9月末の豪雨により淀川右岸三島郡大冠村(現在の高槻市)大塚の堤防が二百メートルにわたり決壊しました。この洪水の決壊個所から「大塚切れ」と呼ばれました。三島郡の大半を沈め当時西成郡であった現在の東淀川区、淀川区、西淀川区一帯は泥海と化し、十三付近で浸水八尺(約2.4メートル)に達しました。この洪水による浸水町村数 三十一、罹災戸数一万五千四百九十七戸、罹災人口四万六千四百九十一人に達しました。

当時の福村では、十月一日夕刻、村民に対して避難するよう通告されました。そして三日昼過ぎ、さらに濁流が押し寄せました。そして十月中旬ようやく淀川の水位が下がりはじめました。浸水各村内の水位の方が淀川より高いので、今の国道四十三号より上流約二百メートルの個所で淀川の堤防を切開して停滞していた湛水を淀川へ流し出しました。福村で地面を見ることができるようになったのは、ほぼ一ヶ月後の十一月五日でした。現在、湛水を流し出すために堤防を切開した地点の右岸堤防に大塚切洪水碑が建てられています。

初代心斎橋・新千舟橋跡 (出来島1丁目)

初代心斎橋


戦前戦後を通じて、初代の心斎橋として市民に親しまれていたのが新千舟橋でした。この橋は現在鶴見緑地公園の緑地西橋として奉公しています。ここで改めて初代心斎橋の歴史をふり返って見ましょう。大阪で最初に架けられた鉄製の橋は高麗橋であり、つづいて明治6年3月、長堀川に心斎橋が架けられました。この橋はドイツ製で日本では五番目の鉄橋であり、長さ37.1m・幅5.2mの橋体を巨大な弓形の桁で支えていたのが特徴で、当時は西洋風のモダンな橋として浪速っ子の人気を集めていました。

現在の新千舟橋跡の写真


現在の新千舟橋跡

明治42年に心斎橋は架け替えられ、初代心斎橋は境川運河にかかる境川橋として二度目の勤めをはたし、昭和3年4月西淀川区の大和田に三度目の勤めをはたしました。

当時、この地は旧国道2号が通り、阪神間の中心地として賑わっていました。しかし、時代の推移と共に大和田川も埋め立てられ、 「新千舟橋」として戦中戦後の混乱期を耐えぬいたこの橋も、昭和46年3月に撤去されました。

一般道路橋として百年近くの間使用された初代心斎橋は、結果的には「新千舟橋」の時代が一番長かったことになります。

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