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歴史を訪ねて(西淀川区) 区内の歌碑

2000年1月1日

ページ番号:1028

古墳と歌碑 (御幣島 光明寺内)

墓石の写真


神功皇后に仕えて功績のあった武内宿弥(たけのうちのすくね)とその子孫の紀定盛の墓だと伝えられていますが、墓石8基のうちのどれがその墓であるかは知ることができません。

歌碑の写真


ただ、この口碑や平安時代の歌人紀貫之の詠んだ歌などから、この地が単なる海辺の一沼沢地でなかったことが察せられます。

平安時代には島々が増え、砂洲が広がることを祝い、国家の隆盛を祈った八十島祭(やそじままつり)が執り行われましたが御幣島の由来は、この祭によるとも伝えられています。

万葉の歌碑 (姫嶋神社内)

万葉の歌碑の写真(姫島)

古代、淀川の河口にできたデルタを難波八十島と総称していました。その島の一つにヒメジマの名があったことは、この万葉の歌からでも知ることができます。

古事記によると、天の日矛(ひほこ)の妻である阿迦留(あかる)姫が、夫の虐待にたえかねて難波の地に逃げてきたことが記さ れてあり、それが姫島の発祥だとも伝えられています。

この姫島ではむかし婦女子は常に帯をしめず帯の代わりに幅の広い前垂れを していたといいますが、この地の婦女が勤勉で、よく糸を紡いでいたことを示すものでしょう。

なお、姫島は比売(ひめ)島、稗(ひえ)島とも古い文書には書かれています。

万葉の歌碑 (大和田 住吉神社内)

万葉の歌碑の写真(大和田)

大和田の地は万葉の時代に、すでに文人の間に知られていたことが、この歌(右写真)からも察せられます。この歌は万葉集に収められているものですが、詠人は明らかではありません。

万葉集の中には田辺福麻呂の歌集から収録したとあります。大和田に隣接した千船の名も恐らくはこの歌にちなんでつけられたものでしょう。さらに大和田については、次のような歌も残されています。

"大和田の浦はに 今宵船とめて きよき浜辺の 月をいざ見ん" (夫木抄 具氏)

紀貫之の歌碑 (佃  田蓑神社内)

紀貫之の歌碑の写真

平安朝の歌人紀貫之(866~945年)の詠んだ歌からすると、佃の地は古くには田蓑島と呼んでいたことがわかります。なお、碑のある田蓑神社は、清和天皇の869年(貞観11年)9月、住吉3神を勧請したと社伝にありますが 神社名は明治時代(1868年)に入ってから現在の名にかえられたようです。

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