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Aコース(3)~(8)

2022年5月6日

ページ番号:367

(3)志太野坡(しだやば)墓所

 〔餌差町 宝国寺(ほうこくじ) 大阪市顕彰史跡〕

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≪碑文≫

野坡は本姓竹田氏。俳人芭蕉の軽みの風潮を示す「炭俵」を編著し、連句は芭蕉と共に名吟を残した。宝永元年(1704)来阪、のち高津無名庵で多数の門人を指導した。

 

宝国寺

 志太野坡(しだやば)は江戸時代初期の俳人で、松尾芭蕉の有名な10人の門人、いわゆる蕉門十哲の1人である。本姓を武田といい、通称は弥助といった。寛文2年(1662)に越前福井の商家に生まれ、若くして江戸に出て両替商の番頭などをしたといわれており、宝永元年(1704)10月に来阪した。以後現在の中央区農人橋の近くに樗木社を結成し、ここを本拠にして活躍したが、享保7年(1722)に樗木社が類焼したため、翌年、現在の中央区高津付近に浅生庵を新築し、以来、無名庵高津野々翁と名乗った。野坡の俳諧活動は、元禄6年(1693)頃から活発になり、翌年には彼の代表的編著であり、蕉門七部集の一つに数えられる「炭俵」を刊行した。また、野坡はしばしば西国を行脚しており、とくに九州には10回ほど遊歴した。有力な門人が各地に多く、元文の頃には1,000余人にも上ったといわれる。元文5年(1740)1月3日、79歳で没した。主な編著には、「万句四之富士」、「放生日」などがある。(右の写真:宝国寺)

(4)契沖旧庵(けいちゅうきゅうあん)並びに墓

〔空清町(からきよちょう) 円珠庵(えんじゅあん) 大阪市顕彰史跡〕

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円珠庵

 明治維新の思想的基盤となった国学は、契沖が江戸中期に中興し、国学4大人といわれる荷田春満(かだのあずままろ)、賀茂真渕(かものまぶち)、本居宣長(もとおりのりなが)、平田篤胤(ひらたあつたね)が大成したものである。契沖は寛永(かんえい)17年(1640)に尼崎の城主青山氏に250石の禄で仕える下川元金の2子として生れた。下川家は名門で祖父の代には熊本の加藤清正に仕えて5,000石を領し、また伯父は1万石を領する家柄であった。しかし加藤家の改易ののちは一家離散し、父はこの尼崎の青山氏に仕えたのである。11歳の時に今里の妙法寺に入り、13歳で高野山にのぼって修業した。24 歳の時には早くも阿闍梨(あじゃり)の僧位を得ている。これより少し前から彼は生玉の曼陀羅院(まんだらいん)の住職となっているが数年ののちにはこの寺を捨て放浪の旅へ出た。長谷寺や室生寺で修業したと伝えられるのはこの頃である。各地を経て40歳の時、彼の仏教への出発の寺である今里の妙法寺の住職となった。ここでは母と兄を迎えて養ったといわれる。徳川光圀の命により万葉集研究の最高文献であるとされる「万葉代匠記(まんようだいしょうき)」を著わしたのはこの時代である。元禄(げんろく)3年(1690)に母が死去したのを機会に妙法寺を弟子に譲り、契沖はこの円珠庵に隠棲したのである。円珠庵時代の契沖は著述と講義と歌会とに専念したが、元禄(げんろく)14年(1701)、62歳で生涯を終えた。彼は稀に見る記憶力の持主で、5歳の時には百人一首を暗記したといわれ、自分の読んだ書物は克明にメモを残し、それは膨大な量である。また彼の研究態度は和漢の典拠を微細に引証した帰納的、文献学的なものでのちの国語学、文献学の発展に大きく貢献した。この円珠庵に契沖の墓はある。契沖の師であり、親友でもあった下河辺長流(しもかわべながる)(ちょうりゅう)の供養碑もここにある。長流は万葉集注釈を徳川光圀から命じられたが、病(中風という)を理由に自分の代わりに契沖を推挙したものという。契沖の「万葉代匠記」に代匠の文字が入れられている所以(ゆえん)である。(右の写真:円珠庵)

 鎌八幡(かまはちまん)    

 境内にある小さな八幡宮がそれで、傍の榎の樹に数多くの鎌が打ち込まれている。元和の大坂攻めの時真田幸村はこの八幡宮に必勝を祈願したあと幹に力一杯鎌を叩き込んで武人の決意を表した。以来鎌を打ち込む風習が残り、鎌八幡と呼ばれて信仰されている。榎は二代目で初代の樹は樹齢350年、周囲8尺、高さ8 間といわれたが、戦災に遭い失っている。しかし二代目にも錆びついた鎌や、刃だけのものが数多く打ち込まれ、見ているだけで奇異な感じがする。

(5)大阪(浪華(なにわ))仮病院(かりびょういん)跡

〔上本町4丁目 大福寺(だいふくじ) 大阪市顕彰史跡〕

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≪碑文≫

明治2年2月、緒方惟準を院長とし、蘭医ボードウィンらを教師とし、当寺内に浪華仮病院が開設された。現在の大阪大学医学部の前身である。

 

記念碑

 明治2年(1869)時の大阪府知事後藤象二郎は、本格的な大学校のほか、病院の建設を計画していたが、財政難のため実現できずに仮に設けた病院がこの仮病院である。院長は緒方惟準(洪庵の次男)、主席教授としてオランダ軍医ボードウィンを招き大福寺の施設の提供を受けて、明治2年(1869)とりあえず一般の病気治療と医師に対する新治術伝習のために開かれた。しかし所詮診療所の域を出ることはなく、半年ののち鈴木町代官所跡(現国立大阪病院付近)に移転した。病院に併設された医学校では、諸医学と臨床経験を教授し、西洋医学を日本に定着させるべく努力が続けられたが、この医学校は明治5年(1872) に学制改革により廃校となった。しかしその廃校を惜しむ人々により再興され、のち大阪帝国大学(現大阪大学)医学部及び付属病院へと発展し、その伝統を伝えている。大福寺門前には「浪華仮病院跡」の石柱が建ち、境内には緒方惟準、ボードウィンの肖像をレリーフした記念碑が立てられている。(右の写真:記念碑)

(6)片山北海(かたやまほっかい)・入江昌喜(いりえまさよし)墓所

〔城南寺町 梅松院(ばいしょういん) 大阪市顕彰史跡〕

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≪碑文≫ 北海は江戸時代後期の人で、混沌詩社をおこして大阪文化に大きく寄与した。昌喜も同時代の人で町人国学者として多くの著書をのこした。

 

北海・昌喜墓所

 片山北海(1723-1790)は江戸後期の儒学者で、かつ大阪の代表的な詩文家でもある。懐徳堂(かいとくどう)、泊園書院(はくえんしょいん)、梅花社(ばいかしゃ)と並ぶ有数の学舎である「混沌詩社(こんとんししゃ)」は片山北海を盟主とし明和(めいわ)2年(1765)に結成された。そのメンバーは儒者、医師、武士、商人など多彩であり、酒盃を交えながら詩文を練り、韻を探り、作品の出来不出来は、盟主片山北海が裁断したという。
入江昌喜(まさよし)(1722-1800)は、榎並屋半次郎という町人国学者であり契沖(けいちゅう)の学に傾倒し、多くのものを学びとったという。本格的な研究は60歳近くになって、かつ独力で学んだといわれるが、次第に実力をつけ業績をあげ、学者としての名も高くなった。高津の隠居所で読書三昧の生活を送り「幽遠随筆」ほか数多くの優れた著作を残している。(右の写真:北海・昌喜墓所)

(7)実相寺浄土曼茶羅図(じっそうじじょうどまんだらず)

〔上本町4丁目 実相寺 重要文化財〕

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曼茶羅図

 曼荼羅図(まんだらず)とは仏画の一種で、阿弥陀や菩薩など諸尊の像を一定の方式に並べて描いたものをいう。わが国では浄土曼荼羅に、当麻曼荼羅・清海曼荼羅・智光曼荼羅の3種があるとされるが、古くから織物の曼荼羅を絵に写して拝む信仰が盛んであった。実相寺ものは当麻曼荼羅の忠実な模写で、阿弥陀如来と観音・勢至の2菩薩を中心に、極楽浄土の模様が克明に描かれている。丹念な筆の運びで一線一画もおろそかにせず、彩色にも細心の注意が払われていて鎌倉時代仏画の優秀作品とされている。(右の写真:曼茶羅図)

(8)岡田米山人(べいさんじん)・岡田半江(はんこう)墓所

〔上本町5丁目 妙中寺(みょうちゅうじ) 大阪市顕彰史跡〕

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≪碑文≫

父子ともに大阪の人で、米山人は詩書を作り、また文人画を描いた。半江も詩文書画に長じ、田能村竹田・頼山陽らの文化人と交友し、大阪文人画の指導者であった。

 

岡田米山人・岡田半江墓所

 父米山人、子半江はともに文人画家として名高い。米山人(1744-1820)は儒者として津幡の藤堂侯に仕えたが、独力で元・明・南宋の古画を学び山水画を長じ、簡潔素朴な中に一種の気品を持つ独自の画風を作りあげたといわれる。半江(1782-1846)もまた父と同じく藤堂侯に仕えたが、父の死後は帰阪して画業に専念し柔らかな筆致と鮮やかな墨色で清潤な水墨画を描き、大阪の文人画壇の指導的な役割を果たした。(右の写真:岡田米山人・岡田半江墓所)

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