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Bコース(10)~(20)

2022年5月6日

ページ番号:416

(10)生國魂(いくくにたま)神社

〔生玉町〕

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生國魂神社

 社伝によれば、神武天皇が九州から難波津に到着の折、石山崎(現大阪城付近)に生島神(いくしまのかみ)、足島神(たるしまのかみ)を祀ったのがはじまりという。中世、隣接した地に石山本願寺が建立されたがこれは信長との石山合戦ののち寺内から出火し焼失してしまった。そののち天正(てんしょう)11年 (1583)に豊臣秀吉が大阪城を築く地を石山崎と定めたため現在の地に生國魂神社は移されたのである。豊臣、徳川と覇者は変ったが、両氏の保護のもとに宏大な社域、壮麗な建造物を誇り参詣者で非常に賑ったものである。維新後も官幣大社に列せられ、天下の名社として崇敬を集めたが明治45年に焼失してしまった。大正3年に再建されたがこの建物もまた昭和20年の戦災に類焼してしまった。現在の建物は昭和31年に建てられたものである。「生國魂造り」という様式のちがう破風を重ねた他に類例を見ない桃山時代の社殿様式を取り入れたものである。(右の写真:生國魂神社)


 大阪薪能(おおさかたきぎのう)
   
 この神社で例年8月11~12日に行われる「大阪薪能(たきぎのう)」は昭和32年に始められたものであるが、今や大阪の夏の風物詩として重要な年中行事となっている。あかあかと燃えさかるかがり火のもとで能が演じられ、かがり火に照らされた能衣裳の輝きは例えようもない。また薪のはじける音だけの静かさの中に響く謡曲と笛、太鼓の音は都心の喧噪(けんそう)をしばし忘れ、まるで自分が別の世界にいるかの如く思うばかりである。
  彦八(ひこはち)まつり    
 大阪落語の始祖、米澤彦八(元録~正徳)が往時活躍したゆかりの地生國魂神社境内に、平成2年「彦八の碑」が大阪落語協会により建立され、翌平成3年から彦八を偲んで毎年9月初旬2日間にわたって開催される「彦八まつり」は大勢の人で賑わう。
また、境内には北向(城方向)八幡宮や浄瑠璃神社など境内社として九社をおまつりしている。

(11)竹田出雲(たけだいずも)墓所

〔生玉町(いくたまてらまち) 青蓮寺(せいれんじ) 大阪市顕彰史跡〕

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 ≪碑文≫

出雲は近松門左衛門と並ぶ浄瑠璃作家中の巨匠で、菅原伝授手習鑑・義経千本桜・仮名手本忠臣蔵など幾多の名作を残した。宝暦6年(1756)没。

 

竹田出雲墓所

 人形浄瑠璃の繁栄を語る時浮かぶのは近松門左衛門と竹本義太夫であるがもう1人忘れてはならないのが竹田出雲(1691-1756)である。彼は竹本義太夫から竹本座の経営を引き受け同座を繁栄へと導いたのである。彼は興行家であると同時に近松門左衛門を師として「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」など浄瑠璃の代表作を執筆し、人形浄瑠璃の発展に大きく寄与した。(右の写真:竹田出雲墓所)

(12)鯛屋亭柳(たいやていりゅう)墓所

〔下寺町1丁目 光傅寺(こうでんじ) 大阪市顕彰史跡〕

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≪碑文≫

菓子司鯛屋清兵衛は男山の信海に狂歌を学び、油縁斎貞柳として世に聞こえ、狂歌中興の人として仰がれた。享保19年(1734)没。

 

鯛屋亭柳墓所

 貞柳(1654-1734)は本名を永田清兵衛といい南御堂の前で菓子司を業とする人であった。鯛屋はその屋号である。俳人である父、叔父の影響を受けてか早くから狂歌にすばらしい才能を発揮したといわれる。それまでは歌人、排諧師の余技にすぎなかった狂歌であったが、彼の出現ののちは職業的な狂歌師が次々と現われるようになった。狂歌の主流はのち関東に移り、太田蜀山人(おおたしょくさんじん)らの出現により江戸文学の花ともいわれるまでに発展するが、その源流をなしたのは貞柳である。(右の写真:鯛屋亭柳墓所)

(13)赤穂義士(あこうぎし)の墓所

〔六万体町(ろくまんたいちょう) 吉祥寺(きっしょうじ)〕

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赤穂義士の墓所

 吉祥寺は、寛永(かんえい)7年(1630)創建の曹洞宗の禅寺で、山号は万松山という。住職が赤穂の出身で、特に浅野長矩(あさのながのり)の帰依を受け浅野家の菩堤寺として参勤交代の折には必ずこの寺院に立寄ったという。元禄(げんろく)15年(1702)の討ち入りの翌年2月、大石内蔵助(おおいしくらのすけ)をはじめとする46士は切腹したが足軽の故に切腹を免かれた寺坂吉右衛門(てらさかきちえもん)が46士の遺髪、遺爪、鎖かたびら等に銀10 両を添えて義士の冥福を祈る碑を建ててくれるようこの寺院に依頼したものという。昭和20年3月の大阪大空襲で堂宇をはじめ寺宝にいたるまでことごとく焼失してしまい残るのは墓石のみであった。義士の墓は山門を入って境内の南西隅にある。この山門は昭和20年の戦災で焼失したのを再建したものであるが、焼失前のそれは中之島常安橋北詰にあった赤穂藩蔵屋敷の門を討ち入りののち移したものであった。墓の中央にある五輪の塔が長矩公のもので、これは浅野の本家芸州侯が建立したものである。その右隣に大石内蔵助の墓、そして左側が大石主税の墓がある。更にその周囲を44士の戎名と行年を刻んだ玉垣が取り囲んでいる。例年討ち入りの12月14日には47義士に子どもが扮し、子供義士時代行列が繰り出される。(右の写真:赤穂義士の墓所)

(14)上島鬼貫(うえしまおにつら)墓所

〔六万体町 鳳林寺(ほうりんじ) 大阪市顕彰史跡〕

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≪碑文≫

鬼貫は伊丹の人。延宝年間大阪に来住し、芭蕉に先んじて「まことの外に俳諧なし」と開眼して多くの名句をのこした。元文3年(1738)鰻谷で没。

 

鳳林寺

 鬼貫(1661-1738)の生地は伊丹であり生家は油屋という酒造業であった。幼い時から俳諧の才能を発揮したといい8歳の時に詠んだのが「来い来いといへど蛍が飛んで行く」であった。25歳の時に「まことの外に俳諧なし」と悟ったといわれる。談林派の西山宗因を慕い学んだが膚があわず、のち伊丹風といわれる独自の俳風を創りあげた。人柄は至孝、温厚、篤実で俳諧師としての名声はもとより人格者としての名も高かったといわれる。また俳諧を生活の資としているのではなく、本業は医師であり鬼貫導引として有名であったという。(右の写真:鳳林寺)

(15)十三(じゅうさん)まいりの寺

〔夕陽丘町(ゆうひがおかちょう) 太平寺(たいへいじ)〕

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太平寺

 太平寺は寛文(かんぶん)3年(1613)加賀国大乗寺第21世超山ぎん越和尚が開山の曹洞宗の禅寺で山号は護国山という。幕末までは朝延をはじめ加賀藩大阪蔵屋敷の菩提寺として厚い庇護のもとに隆盛を誇った。本堂の前に石の鳥居があるが、これは神仏混淆(しんぶつこんこう)時代の遺物ではなく、明治4年 (1871)の廃藩置県に際し加賀藩大阪蔵屋敷にあった前田家の祖という菅原道真を祀る天神宮を移建したものである。壮麗なる神殿、社殿のほか、加賀藩の歴代藩主の見事な位牌を安置する位牌堂などの建造物は昭和20年の戦災でことごとく焼失してしまった。(右の写真:太平寺)

 

 十三(じゅうさん)まいり    
 徳川時代の中頃から江戸の「七五三」に対し、大阪・京都で盛んになった行事であり、虚空蔵菩薩(こくぞうぼさつ)(福徳智恵を備え、これを人々に限りなく与えるという)に13歳になった男女が、菩薩の縁日である3月13日、4月13日に参詣する。別名を「智恵詣」ともいう。
 北山不動(きたやまふどう)    
 卓越した医療技術を持つ北山寿庵(じゅあん)が、生前に建てておいた自分の墓であるという。彼の評価は人によって非常に異なり、ある人は変人といい、またある人は非常に情のある人との評価をしたといわれる。これは彼は医療問題を論ずる時、決して妥協をすることがなかったこと、また医療や薬の代金については金持ちからは莫大な代金を取り、貧しい人々からは代金を取らないばかりか米代までも与えたということによるものであろう。北山不動は石造りの像であるが、その顔は彼の容貌を模したものという。優しい顔である。
 祇空文塚(ぎくうふみづか)    
 祇空は元禄(げんろく)時代から享保(きょうほう)時代にかけて活躍した俳人である。宗祇(そうぎ)を慕い彼の墓前で剃髪しそれ以後祇空と称したのである。最初は談林派に学んだが満足せず、次第に芭蕉の俳風に近づいたといわれる。芭蕉の没後はその殆んどを旅に過した。太平寺境内になぜ文塚があるのかは不明である。

(16)麻田剛立(あさだごうりゅう)墓所

〔夕陽丘町 浄春寺(じょうしゅんじ) 大阪市顕彰史跡町〕

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≪碑文≫

麻田剛立はもと豊後杵築藩の医官で、明和8年(1771)来阪して医学・天文の分野に大きな業績をのこした。寛政11年(1799)没。66歳。

 

麻田剛立墓所

 麻田剛立(1734-1799)は豊後杵築藩(きつきはん)の儒者綾部けい斎(あやべけいさい)の子で通称正庵、剛立が字(あざな)である。若くから医術を修め医官として藩に仕えていた。そして度々官職辞退を藩に申し出ていたが許されず、逐に脱藩して上阪したのである。彼は若い時から天文を好み熱心に独自の観測を続けていたのであるが藩にいては好きな天文暦学の研究に没頭することが出来ないというのが脱藩の理由であったといわれる。上阪した彼は生活のために医を業とし姓も麻田と改めた。医師としても凡庸な開業医ではなく諸獣の生体解剖をして内臓の調査、比較研究をしたという。一方「先事館(せんじかん)」という天文学の塾を開き観測、教授にあたった。彼の評判は次第に高まり門下生も優秀な者が集まるようになった。のち町人学者として名をなす間長涯(はざまちょうがい)、山片蟠桃(やまがたばんとう)などもこの塾の門下生であった。彼は「ケプラーの第3法則(遊星周期の2乗は太陽からの平均距離の3乗に比例する)」の独創など画期的な業績をあげ、実力においては彼及び「先事館」は幕府の天文方をはるかにしのぐにいたった。
この地は藤原家隆(いえたか)が隠棲し庵を結んだ跡ともいわれる。また、ここには江戸末期の画家田能村竹田の墓がある。彼は豊後竹田の人で、のち江戸へ出て谷文晁に画を学び、また経学、詩文にも長じ、元明の南画を学んだという。頼山陽などとも交わり清高・淡雅な画趣に独自の風格を示し、当代文人画の代表者となった。(右の写真:麻田剛立墓所)

(17)伝 藤原家隆(ふじわらいえたか)墓

〔夕陽丘町 大阪府指定史跡〕

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伝 藤原家隆墓

 藤原家隆(1158-1237)は鎌倉時代初期の人で、藤原定家と並び称される歌人である。「新古今和歌集」の編纂にも撰者の1人として参加している。彼が永年住み慣れた京都から大阪へ来たのは、当時流行していた浄土思想の影響で、「日想観(浄土は西方十万億土であり、春秋の中日において西方の上空を見ると浄土の光景を仰観することが出来るという。)」を修めんがためであった。死の前年嘉禎(かてい)2年(1236)に出家し天王寺のほとりに隠棲し、そこで没したという。現在の勝鬘院の北西に、社会福祉事業短大があったが、その通用門の側がその地であるという。この塚は享保(きょうほう)年間(1716- 1736)の建立であるというがその碑文は判読できない程風化してしまっている。また「夕陽丘」の地名は家隆の「契あれば難波の里に移り来て波の入日を拝みつるかな」という和歌によるものという。(右の写真:伝 藤原家隆墓)

(18)勝鬘院(しょうまんいん)(多宝塔・本堂) ~愛染(あいぜん)さん~

〔夕陽丘町 重要文化財・大阪府有形文化財〕

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勝鬘院(多宝塔)

 四天王寺の4ケ院(敬田院(けいでんいん)、療病院(りょうびょういん)、施薬院(せやくいん)、悲田院(ひでんいん)の1つ施薬院の跡である。聖徳太子が三教義疏(ぎしょ)の1つである勝鬘経(しょうまんきょう)を購読したところであると伝えられる。更に本尊に愛染明王を安置するため別名を「愛染堂」ともいわれる。本堂は元和(げんな(わ))4年(1618)に徳川氏により再建されたもので、大阪府有形文化財に指定されており、多宝塔は文録(ぶんろく) 3年(1594)豊臣秀吉の建立といわれる。多宝塔は大阪市でも有数の古い建造物であり、重要文化財に指定されている。また境内にはお夏・清十郎の墓がある。(右の画像:勝鬘院(多宝塔))

 愛染祭(あいぜんまつり)
勝鬘院(本堂)

 大阪の3大祭の1つに数えられ、大阪の夏祭りはこの愛染祭に始まり、住吉祭に終るといわれる。この祭りは6月30日(宵祭)、7月1日(本祭)、7月2日 (残り福)の3日間にわたり行われる。本尊の愛染明王は容貌は憤怒の情を出しているが、内心は優しく愛欲を本体とする愛の神であることから、愛敬(あいぎょう)の神、人気の神として昔から俳優、芸人などの信仰が篤かったという。本祭の7月1日には宝恵籠(ほえかご)や「吉兆(きっちょう)(福笹)」売りが出て大いに賑わう。この祭の頃より浴衣(ゆかた)を着はじめる事から別名を「ゆかた祭」ともいう。十日戎の宝恵籠もこの祭のものを取り入れたものである。(右の写真:勝鬘院(本堂))

(19)植村文楽軒(うえむらぶんらくけん)墓所

〔下寺町2丁目 円成院(えんじょういん) (遊行寺(ゆうぎょうじ)) 大阪市顕彰史跡〕

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≪碑文≫

初代文楽軒は江戸中期の人で、いわゆる文楽の芝居をおこし人形浄瑠璃興行に新時代をもたらした斯道の恩人である。文化7年(1810)没。

 

円成院

 竹本座・豊竹(とよたけ)座の没落ののちは、さしもの人形浄瑠璃も急激に衰退してしまった。これを復興させたのが初代の植村文楽軒である。彼は淡路島の出身であるが13歳の頃より文楽軒と称して浄瑠璃を語り、その名はかなり知られていたという。のち大阪へ出て素人浄瑠璃の会を行ったのが人気を博したので人形を入れて本格的に行ったのが最初だという。文化(ぶんか)2年(1805)のことである。初代文楽軒は文化(ぶんか)7年(1810)に死亡しこの地に葬られた。2代目文楽軒の時に定小屋が出来、それは東区博労町の稲荷社から松島へ、更に御霊神社へと移された。人形浄瑠璃はその頃から「文楽軒の芝居」と呼ばれていたが、それが「文楽」と呼ばれるようになったのは明治4年(1871)3代目植村文楽軒の時からである。またここには元禄7年(1694)10月 12日、51歳で没した芭蕉の供養碑がある。享保9年(1724)門人野坡らの手により建てられたものである。(右の写真:円成院)

(20)増井の清水(ますいのしみず)

〔伶人町(れいにんちょう) 増井弁財天前 大阪市顕彰史跡〕

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≪碑文≫

上町台地の南部には良水の井戸が多い。これらを「逢坂清水」といい、「天王寺七名水」ともいう。増井の清水もその一つである。

 

増井の清水

 水の都大阪も、昔は町の井戸水が不良で飲料水に苦しめられたようである。しかし上町台地の南部には良水の井戸が多く、増井の清水も七名水の一つで、天神坂の北側、興禅寺と清水寺にはさまれた屋敷の一角に古びた井戸の屋形が残されている。
天王寺七名水とは、亀井、逢坂、玉手、安井、増井、有栖、金龍の7つで、四天王寺境内にある亀井の水だけは今も清水が湧出しており、戒名を記した経木をこの水に流して故人を追善する人々の姿が絶えない。(右の写真:増井の清水)

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