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Cコース2(25)~(31)

2022年5月6日

ページ番号:451

(25)広瀬旭荘(ひろせきょくそう)墓所と統国寺大雄殿

〔茶臼山町 統国寺(とうこくじ) 大阪市顕彰史跡 大阪市有形文化財〕

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≪碑文≫

名は謙。大分県日田の人。儒者淡窓の実弟。詩文に通ず。30歳で大阪に来り、多数の門人を教育す。幅広い浪華文化人との交流がある。文久3年57歳で没。

 

広瀬旭荘墓所

 旭荘は、幼くして儒教である兄広瀬淡窓の教えを受け、学塾咸宣園の経営を助けた、天保7年(1836)30歳のとき来阪、堺に開塾した。一時期江戸にも居住し、しばしば旅に出たが、終生大阪を根拠に活動した。著述に励み、詩にすぐれ詩文の指導には規範を強いず、個性を尊重した。大阪では篠崎小竹、後藤松陰、藤澤東がいらと交わり、山陽山陰北陸に遊歴して詩作を重ねた。
また、ここには天文歴学者・地理学者の間長涯などの墓もある。
統国寺大雄殿は大阪市有形文化財に指定され、境内にはベルリンの壁が展示されている。(右の写真:広瀬旭荘墓所)

(26)庚申堂(こうしんどう)

〔堀越町(ほりこしちょう) 正善院(しょうぜんいん)〕

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庚申堂

 42代文武(もんむ)天皇のとき疫病が大流行した。この時四天王寺の僧豪範が庵を結び一心に仏の加護を祈ったところ、大宝元年(701)正月7日庚申の日に青面金剛童子の像を授かり、これを安置してお祀りしたところ疫病が治まったといわれ、以後60日ごとの庚申の日は参詣の人でにぎわう。特に正月の庚申さんは有名。
この庚申堂東側の道(四天王寺南門~西田辺あたりまで)を庚申街道といい、摂津名所図会にも記述されている谷の清水がある。(右の写真:庚申堂)

(27)竹本義太夫(たけもとぎだゆう)墓所

〔大道(だいどう)1丁目 超願寺(ちょうがんじ) 大阪市顕彰史跡〕

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≪碑文≫

義太夫は義太夫節浄瑠璃の元祖といわれ、その繁盛は彼に始まった。この地天王寺村の生まれで、正徳4年(1714)64歳で死去した。

 

竹本義太夫墓所

 竹本義太夫(1651~1714)は独特の義太夫節を創始して、人形浄瑠璃の黄金時代を築いた。協力者に恵まれ竹屋庄兵衛(金主)、近松門左衛門(作者)、竹澤権右衛門(三味線)、辰松八郎兵衛(人形)で元禄16年(1703)竹本座で上演した「曽根崎心中」は空前の大当りをとり、世話物のはじまりとして演劇史上画期的なできごととなった。
茶臼山町の谷町筋の歩道上に義太夫誕生地の碑が建てられている。(右の写真:竹本義太夫墓所)

(28)四天王寺旧境内(してんのうじきゅうけいだい) ・西門石鳥居(さいもんいしとりい)・石地蔵菩薩立像(せきぞうじぞうぼさつりゅうぞう)

〔四天王寺(してんのうじ)1丁目 重要文化財・大阪府有形文化財〕

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 旧境内

本坊方丈

 仏教の受容に賛成の蘇我氏(そがし)と反対の物部氏(もののべし)との対立は賛成派の蘇我氏の勝利に終った。聖徳太子は仏教に対し深い理解を持ち蘇我氏と同じ立場を取っていたが、両氏の争いに際し戦勝を祈り四天王の像を造り、物部氏に打ち勝つ事が出来れば四天王のために寺院を営むことを誓ったという。乱ののち、推古天皇元年(593)日本仏法最初の官寺として建立されたその寺院が四天王寺である。同様に蘇我馬子が建立したのが奈良の飛鳥寺(元興寺)である。場所については「日本書紀」と「上宮聖徳太子伝補闕記」では相異があり、前者は荒陵(あらはか)の地、つまり現在地と伝え、後者は最初玉造(中央区) に創建され「推古天皇元年に荒陵に移る」という旨の記載がある。しかし決着は出ていない。因みに現在の四天王寺は山号を荒陵山といい、何れの宗派にも属しない単立寺院で和宗を名乗る。また四天王寺の建つ地は、それ以前に誰か高貴な人の陵があり、時間が立つにつれ荒れ果ててしまい、荒陵(あらはか)と呼ばれたものだという。この寺院の伽藍配置は「四天王寺式伽藍配置」と呼ばれる独特なもので日本最古の建築様式である。この伽藍配置は中門、五重塔、金堂、講堂が南北一直線に並び、五重塔、金堂を中門と講堂を結ぶ廻廊が方形に取り巻くという配置である。太子は仏教を通しての社会福祉事業の理想の実現のために敬田院、悲田院、施薬院、療病院の4ケ院を設けた。以後太子讃仰の中心として1,400余年の伝統を持つ名刹として、また宗派を問わない八宗兼学の庶民の寺院として親まれている。建造物は度重なる戦火・天災により罹災したがその都度、寺域、伽藍配置ともに創建当初と変らずに再建された。現在の中心伽藍は昭和 20年の戦火で焼失したものを昭和38年に再建したものである。なお元和(げんな(わ))(1615-1624)以来の建造物として本坊西通用門、本坊方丈、五智光院、六時堂、元三大師堂、石舞台の6棟は重要文化財の指定を受けている。(右の写真:本坊方丈)

 

 西門石鳥居(さいもんいしとりい)

西門石鳥居

 永仁(えいじん)2年(1294)に忍性(にんしょう)の建立による石造りの大鳥居で重要文化財に指定。中央の扁額には「釈迦如来転法輪所、当極楽土東門中心」と書かれているが、この門は中世浄土思想の影響で西方浄土の東門であると考えられ、ここで彼岸に夕陽を拝し極楽浄土を思うという「日想観(にっそうかん)」の修行がなされたところである。現在でも、春秋の彼岸の中日には、太陽がこの鳥居の中心を通って沈むのを見ることができる。(右の写真:西門石鳥居)

 

 石像 地蔵菩薩立像(せきぞうじぞうぼさつりゅうぞう)

石像 地蔵菩薩立像

 この像はもと四天王寺西門の西方約300メートル、逢坂の清水の傍らに石像弥陀坐像とともに遺っていたが、同所が市電通となったため、四天王寺境内に移されたものである。像は高さ約1.73メートルで砂岩の石面に半肉彫され、像高は約1.35メートル、立像で単弁請花の上に立っている。右手に錫杖、左手に宝珠を持つ通有の像式に従いその左右両脇に一行ずつの銘文が刻され、悪趣往来結縁法界平等利正和六年と読まれる。紀年に月日がないが、この年は2月3日に文保と改元せられたから一応それまでの所作と考えられる年代の明かな地蔵石像の佳作として保存すべきものである。
大阪府有形文化財に指定されている。(右の写真:石像 地蔵菩薩立像)

 五重塔    

 現在のものは昭和38年の再建であり、8度目であるという。塔の総長39.2m、相輪の長さが実に12.3mもある。相輪の長さが塔全体の約1/3にも達するというのが特徴である。塔の最上層部には舎利が奉安されている。

 

 金堂    

 五重塔、講堂とともに昭和38年に再建された。内部はエンタシスの柱間14面に総延長50mにも及ぶ釈迦の一代を描いた中村岳陵画伯の筆による壮麗な壁画が描かれている。
四天王寺が所蔵する国宝、重要文化財は二百数十点にも及び、その他にも絵画、彫刻、美術品など貴重なものを多く所蔵する。
年中行事も永い歴史を有する寺院にふさわしく多彩な行事が行われる。


 どやどや(修正会結願法要(しゅしょうえけちがんほうよう)) -1月14日-

四天王寺(六時堂)

 元日から14日まで境内六時堂で行われる五穀豊穰、天下泰平を祈願する修正会(しゅしょうえ)の結願(けちがん)にあたる14日の午後に行われる勇壮な行事である。東と西の2組に分かれた裸に紅白のはちまき、まわし姿の若者達が付近を練り歩いたのち、修正会の法要中に祈願された牛王宝印(ごおうほういん) の護符を奪い合うものである。奪い合う裸の若者達の肌があたって怪我をしないように冷水が浴びせられるが力の限りもみ合うためにその体からは湯気がたちのぼる程である。(右の写真:四天王寺(六時堂))

 聖霊会舞楽大法要(しょうりょうえぶがく) -4月22日-    

 聖徳太子は推古天皇30年2月22日に49歳でこの世を去った。四天王寺では2ケ月遅れの4月22日に、六時堂その前の亀の池にかかる石舞台を中心として豪華な法要と舞楽の一大絵巻が展開される。石舞台には朱の高欄が組まれ4隅に真紅の曼珠沙華(まんじゅしゃげ)を模した飾り物が立てられ、左右に置かれた 2つの楽舎の前には世界最大といわれる1枚皮の直径2.5mもある1対の太鼓がすえられる。その中で幻想的で雄大な大陸の舞がゆうゆうと舞われるとともに「六時堂」内では寺院としての法要が行われる。舞楽と法要が混然一体となるところにこの行事の特徴がある。この舞楽は遠くインド、西域地方で古くから行われていたものであるが、それが中国を経由して日本に伝わってきたものである。聖徳太子はこの舞楽を仏教普及の手段として採用したという。四天王寺ではこの舞楽の保存団体である雅亮会により、その伝統は絶やさずに受け継がれ各種の法要に奉仕され、この天王寺舞楽は重要無形民族文化財に指定されている。

 

 千日まいり -8月9、10日-    

 この両日に詣ることは平時の1,000日続けて詣ることに匹敵すると信じられ多くの参詣者がある。東京での4万6千日詣である。
このほか春の彼岸会(ひがんえ)(3月18日-24日)、秋の彼岸会(9月20日-26日)、お大師まいり(毎月21日)、聖徳太子会(毎月22日)など多くの行事が行われる。

(29)摂津国分寺(せっつこくぶんじ)跡

〔国分町(こくぶちょう) 大阪市顕彰史跡〕

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≪碑文≫

この地域は昔から国分寺の名を伝え、奈良時代の瓦が出土したこともあって、古来摂津国分寺跡と推定されている。(国分公園)

 

摂津国分寺跡

 天平13年(741)聖武天皇の勅願によって国ごとに国分寺と国分尼寺が置かれ、東大寺を総国分寺、法華寺を総国分尼寺とした。国家の宗教的統率力によって地方政治の確立、地方文化の開拓に力を入れようとしたものと推測され、その跡は各地に遺存するが、摂津国分寺についてはほとんど知られることがなく、奈良時代の蓮華文や唐草文の軒瓦などを出土したにとどまる。(右の写真:摂津国分寺跡)

(30)堂ヶ芝廃寺(どうがしばはいじ)

〔堂ケ芝(どうがしば)1丁目 観音寺境内 大阪市顕彰史跡〕

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堂ヶ芝廃寺

 大阪は古代において東アジアの諸外国に向けた外交の窓口であり、6世紀半ばに伝来した仏教文化の受容の最先端地域でもあった。中国や朝鮮からの渡来人たちの力を中心として、はやくから大阪の地に四天王寺をはじめ多数の寺院が建立されたと考えられている。「日本書紀」「扶桑略記」「日本霊異記」などの書物にみられる大別王寺(おおわけおうじ)や百済寺はその代表的な寺院である。前者は日本から百済への使者である大別王が建てた寺とも住んだ寺ともいわれ、後者は百済王氏の氏寺ともいわれる。
堂ケ芝の地と周辺から古代の瓦片は多数出土しており、古代の寺院跡と推定されている。かつて巨大な塔心礎も残っていた。この地を大別王寺や百済寺の跡と考える説もある。(右の写真:堂ヶ芝廃寺)

(31)細工谷遺跡出土遺物(さいくだにいせきしゅつどいぶつ)

〔細工谷(さいくだに)1丁目 大阪市指定の文化財〕

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出土遺物(枝銭)

 細工谷遺跡は難波宮の南方2km弱にあり、推定朱雀大路跡の東隣に位置する。平成8年度の発掘調査によって、難波京内で全く空白であった地域に「百済尼寺」という古代寺院の存在が確認され、全国で初めて和同開珎の枝銭が出土した。
枝銭が出土した溝からは、和同銭をはじめとする多量の銅製品・鉄製品、さらに銅板・銅塊・鉛板・方鉛鉱などの金属器素材や鉱滓類といった金属加工に関わる遺物も多量に見つかった。また、別の遺構からは府下で初めての出土となる富本銭が見つかっている。さらに、尼の父の名前を記した木簡や、「百済尼寺」の存在を示す墨書土器の出土が注目される。これらは古代仏教史や難波地域における渡来系氏族のあり方、銭貨の鋳造と流通といった、重要な課題に直結する資料であるといえる。
枝銭は湯口から伸びる鋳棹に6枚の和同開珎が取り付いている。鋳棹は断面形が楕円ないしカマボコ形で、下端を欠損している。和同開珎の鋳造工程を具体的に示している。銅の純度は96~98%と高く、重さは78.9gである。
枝銭と一緒に出土した和同開珎には、18点の完形品があるが、そのほかは鋳バリが残るバリ銭や破片で、未完成品・失敗品である。完形であっても、重さに 1.45~2.91g、直径で23.7~25.2mmのばらつきがある。成分分析でも銅の純度にばらつきが大きく、また本来含有する錫が極端に少ないことから、通常の和同開珎より品質がかなり劣ったものとみられる。
富本銭は和同開珎に先行する我が国最古の鋳造貨幣である。奈良県明日香村の飛鳥池遺跡から多量に出土したが、それ以外の出土例は限られる。
木簡の1つには「上和尼父南部□□王久支」とあり、「上和尼」という尼の名前に続いて、父親の名が記される。尼寺への一般男性の通行は規制されていたため、この木簡は「百済尼寺」に出入りするための身分証明であったと思われる。
そのほかの木簡には「千字文」から写した「逐物意」木簡、「播磨国」木簡、「□月八日」木簡がある。
墨書土器には「百済尼」・「百尼寺」・「百尼」といった「百済尼寺」に関連するものが多数含まれ、そのほかに「四月八日」・「東井・福」や葉っぱの絵などがある。
出土遺物(一括186点)については、大阪歴史博物館(大阪市中央区)で常設展示されている。(右の写真:出土遺物(枝銭))

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