都島本通と中通にあった島田医院さんです。医師の先生が出征される時の写真を、ご提供いただきました。
友渕町 島田様
善源寺町 吉本様
毛馬橋の袂から撮影した毛馬の閘門です。明治40(1907)年に、淀川と大川を行き来する船の往来を助ける「毛馬第一閘門」が、明治43(1910)年に、淀川から大川へ流量を調整する「毛馬洗堰」が、それぞれ完成しました。淀川の多くの歴史を見てきた施設です。
大東町 原田様
昭和30年頃の、「サイクルショップ キムラ」さん。この後、数回の改装を経て、今日も現在の場所(都島南通2)で営業を続けておられます。中央に映っているのは、現在の店主の方です。
京橋中央商店街振興組合様
後ろに映っているのは、桜宮橋(通称:銀橋)で、この頃は現在と違い、まだ一本だけです。大川沿いにまだ砂浜が残っていた当時の様子がよく分かります。
ご提供者様のお父様が出征の時の様子です。「ご近所の皆さんが総出でお見送りをしてくださった」とのことです。場所は、現在の中央区にあったご自宅で撮られたものとのことです。
東都島連合 小林様
ご提供者のお父様が出征の時の、ご親族の方々の様子です。
大日本国防婦人会江戸堀分会の布です。
インパール作戦に赴かれたお父様。終戦後、帰還されました。このとき寄せ書きされた日章旗は、今日まで大切に保管されてきたとのことです。
昭和35年前後の天神祭の様子です。終戦から数年経ちましたが、戦後はじめて開催されたのがこの頃。官民一体での盛り上がりが、今の日本三大祭りの賑わいにつながっています。
東野田町 多田様
網島町 北田様
昭和24(1949)年頃の国鉄片町駅です。「12歳の時、はじめて手にしたマイクロカメラで撮りました。家の裏にあった旧片町駅構内と記憶しています。」とのこと。寝屋川を挟んで南側には京橋大空襲で被災した大阪砲兵工廠跡がありました。甚大な被害を受けた都島への空襲で、ご自宅とこの片町2丁目の一部が焼け残ったそうです。
中野町 寺西様
都島本通の窪田様より、お母様が保存しておられた写真をご提供いただきました。
都島本通 窪田様
町内会の防火訓練の様子です。ご提供者のお祖父様も写っているとのことです。
町内会の防火訓練の様子です。
写真の裏には、「昭和10年6月23日桜の宮大橋市電開通1081型開通」とあります。お話では、当時の車両は全長13m、運転手1名、車掌2名でしたが、木造のため、痛みやすく、その後、新しい形になったとのことです。空襲の時、ご提供者様は学徒動員で都島区にはおられませんでした。空襲があったと聞き、家に帰ろうとしたが、戻れなかったそうです。
守口市 阪本様
毛馬地域1948年頃の空撮映像です。お知り合いから頂いたものとのこと。爆弾のあとが見えます。不発弾もたくさん落ちました。低空から狙われたというお話もお聞かせいただきました。(上空2,438メートル)
毛馬町 角田様
(上空6,705メートル)
善源寺町 中山様
国防婦人会が準備待機している様子です。
戦時下末期の防空演習の様子です。
今の善源寺町2丁目、奥に見える門は、当時の十条製紙の工場です。横断幕には「祈皇軍武運長久 聖戦四周年記念 都島北通西1丁目西町会」とあります。子どもから大人まで、元気一杯の体操の様子です。
八尾市 喜多様
ご提供者様のお父様、中野町の平野様のお写真です。お父様が小学生の時の集合写真をご提供いただきました。みんな揃っての坊主頭と制服姿が印象的です。
終戦当時、毛馬町にお勤め先があったお母様がお持ちのもので、「B29爆撃機のあとに“空から降ってきた”と聞きました」とのことです。お母様が大切にしまっておられたとのことです。
東淀川区青少年福祉委員会 浅野様